(一)原文:これ無きが故に、六識身無く、六触身・六受身・六想身・六思身無し。これ無きが故に、当来の生老病死憂悲悩苦あること無し。かくの如く純大苦聚は滅す。若し多聞の聖弟子、世間の集と世間の滅とを、如实に正しく知り、善く見、善く覚り、善く入るならば、これを聖弟子はこの善を招き、この善法を得、この善法を知り、この善法に入り、世間の生滅を覚知し見て、賢聖の出離を成就し、実に寂滅の正尽苦を究竟し苦辺に至ると名づく。所以者は何ぞ。多聞の聖弟子は世間の集滅を如实に知り、善く見善く覚り善く入るが故なり。諸比丘、仏の説きたまう所を聞き、歓喜して奉行せり。
釈:仏は「これ無きが故に、六識身が無くなり、続いて六触身・六受身・六想身・六思身もまた消滅する」と説かれた。これ有るが故に、未来の生老病死憂悲悩苦が無くなり、かかる純大苦聚も滅する。もし多聞の聖弟子が世間の集と滅を如实に正しく認知し、善く観察し善く覚り善くこの法に入るならば、聖弟子はこの善法を招集し、この善法を得、この善法を知り、この善法に入り、世間の生滅を覚知証見し、賢聖の出離果を成就し、真実に寂滅の正尽苦を証得し、究竟の苦辺に至る。何故かというに、多聞の聖弟子はすでに世間の集滅を如实に了知し、善く観察し善く覚り善くこの法に入るが故である。
此れ無きが故に彼れ無し。例えば無明が無くなれば、意根の行も無くなる。行が無くなれば六識身も無くなる。六識身が無くなれば六入も無くなる。六入が無くなれば触も無くなる。触が無くなれば受も無くなる。受が無くなれば貪愛も無くなる。貪愛が無くなれば取も無くなる。取が無くなれば有も無くなる。有が無くなれば生も無くなる。生が無くなれば老病死憂悲悩苦も無くなる。無明が無くなれば生老病死も無くなり、中間のいずれかの連鎖が断たれれば、十二因縁の生死循環は全て断たれる。
生死苦楽の鍵は執取の有無にある。執取が絶え間ない時、悩苦も絶えない。何故ならば、何を掴んでも苦を掴み、棘を掴み、毒薬を掴むことになる。貪愛を執取することは即ち苦を掴むことであり、貪愛こそ苦であり、貪愛の集は即ち苦集であり、取の集は即ち苦集である。我々は肝に銘ずべきである――取ることは即ち苦を取り、毒薬を取り、遂には自らを害することを。
世間の苦集苦滅の道理を知り、賢聖の出離果を成就する。この知は単に意識理論上の知では足りず、主として意根が知らねばならない。意根は主として決断を下す識であるから、意根が知って初めて苦業を造らぬよう抉択し、苦を滅し苦集を断ち、解脱生死を得る。意識が苦を知りながら意根が知らなければ、依然として苦因を作り続ける。意根が一切の身口意行を決定する故に、意識は決定的作用を持たず、苦を知っても致し方ない。故に法を学ぶには意根を修め、意根の心に学び入らねばならない。意識心も重要ではあるが、意根は更に重要である。
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