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日常開示

2020年11月08日    日曜日     第2 回の開示 合計2770回の開示

雑阿含経(二九五)の二

(二)原文:その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、この身は汝の所有にあらず。また他の者の所有にもあらず。六触入処と謂うは、本より修行願を以て、この身を受得せり。何をか六と為す。眼触入処、耳・鼻・舌・身・意触入処なり。彼の多聞の聖弟子は諸縁起においていささかも正しく思惟観察せん。この六識身・六触身・六受身・六想身・六思身有りと。所謂く此有るが故に、当来の生老病死憂悲悩苦有り。かくの如く純大苦聚は集起す。是を因あり縁ありて世間は集起すと名づく。

釈:世尊は諸比丘に告げたまわく、汝らが現在の色身は汝らの所有に属さず、また他の者にも属さず。六触入処が絶え間なく運行して滅せず、自らの種々の願行を満足せしむるが故に、この色身を受生せり。六触入処とは、眼触入処・耳触入処・鼻触入処・舌触入処・身触入処・意触入処なり。多聞の聖弟子は一切の縁起法に対し、善く正しく理にかなった思惟観察をなすべし。六識身あるが故に六触身・六受身・六想身・六思身有り。所謂く此有るが故に彼有りとは、六識身あるが故に未来の生老病死憂悲苦悩有り、かくの如く純大苦聚は集起す。これを因あり縁ありて世間は集起すと名づく。

仏の説きたまうところ、衆生に六識身・六触身・六受身・六想身・六思身有り。六識身とは眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識なり。六受身とは眼触生受・耳触生受・鼻触生受・舌触生受・身触生受・意触生受なり。六触身とは眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触なり。六想身とは眼触生想・耳触生想・鼻触生想・舌触生想・身触生想・意触生想なり。六思身とは眼触生思・耳触生思・鼻触生思・舌触生思・身触生思・意触生思なり。思とは択択決定と行為造作なり。例えば眼根が色塵に触れて思を生じ、眼識が択択を起こし、かつ行為造作有りて更に運行す。これは行陰に属す。

眼が色を見る時、眼識は思と行有り、択択と行為造作有り。耳が声を聞く時、耳識は択択と行為造作有り。分別有るは即ち行為造作なり、これを六思身と名づけ、また六行とも行陰とも称す。故に思は行を含む。思と想は異なり、想は了別執取の行為、あるいは第六・第七識の妄想・分別・打算等の思想活動なり。この思は主に択択と択択後の行為造作に在り。六識の行為造作は身口意行なり。但し択択後に於いては静止寂滅し、身口意行の造作無き場合も有り。

此有るが故に彼有りとは十二因縁を説く。前の連鎖は因、後の連鎖は果なり。第二の連鎖より始め、各連鎖は前の果にしてまた次の因なり。最後の大苦聚は唯果にして因ならず。最初の無明は唯因にして果ならず。前の因無くして無始より存在す。十二因縁は即ち縁起法なり。世間の一切法は皆縁起法なり。若し因縁無くんば、一切法現れず。これを因あり縁ありて世間は集起すと名づく。世間は因縁によって集起せり。因あり縁ありて世間は滅す。滅もまた因縁有りて成る。故に無縁無故に滅すること無し。

但し一法のみは因縁の中に在らず。因縁によって生ぜられるものにあらず。これ万法の因なり。万法はこれ有るが故に現出せり。これ即ち第八識阿頼耶識なり。これはいずれの縁をも用いずして存在す。これを生ずる法無し。法爾として如是に存在す。この法の存在には何故無く、原因無し。その他の一切法の存在には何故有り、皆因縁有り。第八識有るが故に、世間の一切の仮相は建立せらる。宇宙・虚空・大千世界・衆生の五陰身、これ万法の因にして、また万法の根・万法の縁なり。これ自身は根も縁も有せず。

——生如法師の開示
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