衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月11日    水曜日     第3 回の開示 合計2778回の開示

雑阿含経(二九七)その一

(一)原文:如是我聞。一時、仏は拘留搜調牛聚落に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく「我れ汝等のために法を説かん。初めも善く、中も善く、終わりも善し。その義善く、味わいも善く、純一にして清浄、梵行は清白なり。所謂く大空法経なり。諦聴せよ。善く思惟せよ。今汝等のために説かん」と。何をか大空法経と為す。所謂く「此れ有るが故に彼有り、此れ起こるが故に彼起こる」と。即ち無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至、純大苦聚を集む。

釈:世尊は諸比丘に告げたまわく「我れ汝らのために法を説かん。初めも善く、中も善く、終わりも善し。その義理も善く、法味も善く、純粋清浄にして、梵行は清らかにして染むることなし。これを大空法経と名づく。よく聞き、よく考えよ。今まさに汝らのために説かん」と。何を大空法経とするや。即ち「此の法あるが故に彼の法あり、此の法生ずるが故に彼の法もまた生ず」と。所謂く無明を縁として行あり、行を縁として六識あり、六識を縁として名色あり、名色を縁として六入あり、六入を縁として触あり、触を縁として受あり、受を縁として愛あり、愛を縁として取あり、取を縁として有あり、有を縁として生あり、生を縁として老死憂悲苦悩あり、遂に純大苦聚を集む。

原文:生老死を縁ずる者に、もし問うて言わん『彼れ誰が老死か。老死は誰に属すや』と。彼れ即ち答えて言わん『我れ即ち老死なり。今の老死は我に属す。老死は即ち我なり』と。命は即ち身なりと説く者、或いは命は身と異なりと説く者、此れ一義にして種種に説く所あり。もし『命即ち身なり』と見る者は、梵行者に有ることなし。もしまた『命は身と異なり』と見る者も、梵行者に有ることなし。此の二辺に心を随わず、正しく中道に向かう。賢聖世に出でて、実相を如実に顛倒せず正見す。所謂く生老死を縁ず。かくの如く生有は取愛を縁じ、受触は六入処を縁じ、名色識行は無明を縁ずるが故に行あり。

釈:生を縁として老死ある問題について、もし「誰が老死するのか、老死は誰の所有か」と問う者あれば、「我れ即ち老死なり、今の老死は我に属す、老死は即ち我なり」と答えよ。もし「命は即ち色身なり」と言う者、或いは「命が変異すれば色身も変異す」と言う者あれば、これらは一義ながら種々に説く所あり。「命即ち身なり」と見る者は、梵行を修める者に存在せず、「命は身と異なり」と見る者も梵行を修める者に存在せず。比丘らよ、命と色身の有無という二辺の説に心を動かすことなく、ただ中道涅槃に向かえ。賢聖の生まれたる後、十二因縁を如実に正見し、所謂く生を縁として老死あり、有を縁として生あり、取を縁として有あり、愛を縁として取あり、受を縁として愛あり、触を縁として受あり、六入を縁として触あり、名色によって六入あり、識を縁として名色あり、行を縁として識あり、無明を縁として行あり。

——生如法師の開示
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