まず、各仏典の翻訳において誤解が生じる可能性がございます。経典翻訳者の修行と悟りのレベルはまちまちで、各人の証量も異なり、また証量を全く持たない翻訳者も存在するため、翻訳された仏典の法義には相違が生じております。一人が翻訳すれば一つの水準が、多数が翻訳すれば多数の水準が生まれるのです。かつて小乗の修行者たちは意根を理解しておらず、経典翻訳において意根に関する法義に遭遇した際、理解に偏りが生じ、あるいは根本的に理解できない場合もありました。仮にその人物が禅定に優れていたとしても、修行と悟りの面でこの不足を補うことはできても、経典の解説や翻訳においてはこの部分の不足を補う術がありません。そのため後世、禅定のない人々に様々な誤解が生じ、実証することができず、やむなく推論や分析、憶測に頼ることとなったのです。
仏道修行者が法義を貫通しておらず、意根を理解・実証できない場合、経典に対する認識に誤解と不通が生じます。例えば十二因縁の「無明縁行」「行縁識」の箇所において、どう考えても「行」と「識」が何を指すのか理解できず、両者の関係を整理できず、運行の前後順序を逆転させてしまうことがあります。もし「行縁識」の「識」を第七識あるいは第八識と解釈するならば、法義は甚だしく誤りとなります。いかなる「行」が第七識を生じ得ましょうか。第八識の「行」のみが第七識を生じ得ますが、第八識には無明が存在しませんので、「無明縁行」の箇所が説明できなくなります。いかなる「行」も第八識を生じ得ず、世間・出世間のいかなる「行」も第八識を生じさせることはできません。従って「行縁識」「識縁名色」の「識」は第七識や第八識ではなく、六識でなければならないのです。
では、いかなる「行」が六識を生じ得るのでしょうか。身口意の行が決して六識を生じることはなく、これはまさに逆でございます。六識がなければ身口意の行は存在し得ず、六識の身口意行が自ら六識を生じることは不可能です。自己が自己を生むことはできず、他の識や法によって生じるのみです。六識は第八識によってのみ生じ、第七識の行は助縁となり、第七識の行為を起因として第八識が随順協力して六識を生じさせ、身口意行を造作し、業種を蓄積して、来世における五陰名色誕生の因と成るのです。このように連環的に運行することで、完全な十二因縁の生死輪廻の苦が成立するのでございます。
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