衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月28日    水曜日     第6 回の開示 合計1050回の開示

業行は主に意根による心の行いです

意識がない状態でなされた法は、業行と言えるか、果報があるか。依然として業行に属し、果報を有します。それも業に依る行いであるため、より業行に属するのです。例えば末那識が阿頼耶識と共に転生する際、意識は関与しませんが、この業行は極めて重大で、全ての業行の中で最大かつ最も重要なものであり、衆生の生死の方向を決定付ける十二因縁の輪廻連鎖の一つです。末那識には無明があるため、必ず生死の業行を生じ、必ず転生へと向かわせるのです。もし末那識と阿頼耶識が共に転生することを業行に属さないとするなら、三界に業行など存在しなくなります。

末那識が阿頼耶識と共に極楽浄土で蓮華を造る時、意識の参与がなくとも、この業行も非常に大きく、絶対的な善業行です。これは衆生が死後極楽国土へ趣き、五濁悪世の生死の束縛から離れ、将来阿弥陀仏の加護のもとで自性を悟り、十方世界に飛翔して有情を広く利益することを決定付けます。

末那識が阿頼耶識と共に他者を干渉し、加持を施し、他人の夢中に入り、警覚を与え、あるいは意識がない状態で寝返りを打って新生児を圧死させるなど、これら全てが業行であり、善悪無記の別があり、それぞれ果報を伴います。心と行いがあれば全て業となり、必ず果報があります。深夜に意識なく寝返りで新生児を圧死させた場合、これは無意の無記業ですが、依然として果報があります。現世の果報は子を失う苦しみ、来世では自らが無意に圧死される可能性もあり、これは苦果であって苦楽混在の果報ではありません。無記業が招くのは必ずしも無記の果報とは限らないのです。無意とは意識がない状態ですが、末那識は存在し、故意ではなくとも、行いがあれば業と果報が生じます。

業は主に末那識の業であり、末那識と相応するものです。これは末那識の心行が造作する過程です。末那識の心行の造作には時に六識の協力が必要ですが、六識が関与しない場合もあり得ます。いずれにせよ業行であり、果報を伴います。末那識が業を造りたくないなら、業行は現れず、六識も生じて業を造ることはありません。故に末那識は業を造る主体であり、善悪の業も皆この理に従うのです。

——生如法師の開示
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