意識がない状態で造作される法は、業行と言えるのか、果報はあるのか。それでも依然として業行に属し、果報がある。そして業に依って存在する行いである以上、なおさら業行に属する。例えば、末那識(意根)が如来蔵と共に転生する場合、意識は関与しないが、この業行は非常に大きく、あらゆる業行の中で最大かつ最も重要なものであり、決定的なものである。これは衆生の生死の趣向を決定づけ、十二因縁の生死の連鎖の一つである。末那識には無明があるため、必ず生死の業行を生じ、必ず転生へと向かい、生死に順応する。もし末那識が如来蔵と共に転生することを業行に属さないとするならば、三界の世にはいかなる業行も存在しないことになる。
末那識が如来蔵と共に極楽世界で蓮華を造り、意識の参与なく行うこの業行も非常に大きく、絶対的な善業行である。これは衆生の死後の極楽国土への趣向を決定づけ、五濁悪世の生死の繫縛から遠ざけ、将来阿弥陀仏の摂受のもとで明心見性し、その後十方世界へ飛翔して広く有情を利することになる。
末那識が如来蔵と共に他人を干渉したり、共に加持を施したり、共に他人の夢の中に入ったり、共に他人を警戒させたり、また意識がない状態で寝返りを打って新生児を圧死させたりするなど、これら全ては業行であり、善もあれば悪もあり、不善不悪のものもある。いずれも果報を伴う。心と行いがある限り、それは全て業であり、果報がある。真夜中に眠って意識がなく、寝返りで新生児を圧死させるのは無意図的なものであり、無記業であるが、それにも果報がある。当時の果報は子を失う苦しみであり、後世の果報としては自らが無意識のうちに圧死させられる可能性もある。これは苦果であり、不苦不楽の果報ではない。無記業が感召するのは必ずしも不苦不楽の果報とは限らない。無意図とは意識がない状態であるが、末那識は存在する。末那識も故意ではなく、意思はないが、行いがある限り、業と果報が存在する。
業は主に末那識の業であり、末那識と相応する。それは末那識の心行が造作する過程である。末那識の心行の造作には、時に六識の協力が必要であり、時に六識が協力できず、六識の参与なく造作されることもあるが、いずれも業行であり、果報を伴う。末那識が業を造りたくないと思えば、業行は現れず、六識も生じて業を造ることはない。したがって、末那識は業を造る主人であると言える。善業も悪業も同様である。
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