原文:阿支羅迦葉、仏に白しき。いかん、瞿曇。苦は自ら作るものか。仏、迦葉に告げられた。苦が自ら作るというのは、これは無記である。迦葉また問う。いかん、瞿曇。苦は他が作るものか。仏、迦葉に告げられた。苦が他作というのも、これも無記である。迦葉また問う。苦は自他共作か。仏、迦葉に告げられた。苦が自他共作というのも、これも無記である。迦葉また問う。いかん、瞿曇。苦は自他非ずして無因に作られるのか。仏、迦葉に告げられた。苦が自他非ずというのも、これも無記である。
釈:阿支羅迦葉が仏に申し上げた。「どういうことですか、瞿曇。苦は自分で作るのですか?」仏は迦葉に答えられた。「苦が自ら作るというのは、これは無記(答えないこと)である」。迦葉が再び問うた。「では苦は他が作るのですか?」仏は答えられた。「苦が他作というのも、これも無記である」。迦葉が再び問うた。「苦は自他共作ですか?」仏は答えられた。「苦が自他共作というのも、これも無記である」。迦葉が再び問うた。「苦は自他でもなく無因に作られるのですか?」仏は迦葉に告げられた。「苦が自他非ずというのも、これも無記である」。
原文:迦葉また問う。いかにして無因作というのか。瞿曇。問うた苦は自作かと。答えに無記と言う。他作か。自他作か。非自非他無因作か。答えに無記と言う。今この苦は無いのか。仏、迦葉に告げられた。この苦が無いのではない。しかるにこの苦はある。迦葉、仏に白しき。善きかな。瞿曇。苦があると説く。我のために法を説きたまえ。我をして苦を知り苦を見しめよ。
仏、迦葉に告げられた。もし受けることが即ち自ら受けるならば、我は苦が自作であると説くべきである。もし他が受けるならば、即ち他作である。もし自ら受け他も受け、さらに苦を生ずるならば、このようなものは自他共作である。我も説かない。もし自他によらず無因によって苦が生ずるならば、我も説かない。これらの辺を離れ、中道を説く。如来の説法は、これあるがゆえに彼あり、これ起こるがゆえに彼起こる。これを縁無明行と言い、乃至純大苦聚を集める。無明滅すれば則ち行滅し、乃至純大苦聚滅す。
釈:迦葉が再び問うた。「無因作とはどういうことですか?瞿曇、私が先に苦は自作かと問うた時、あなたは無記と答えられました。他作か、自他共作か、非自非他無因作かと問うても、無記と答えられました。では今、苦は存在しないのですか?」仏は迦葉に告げられた。「苦が無いのではない。しかるに苦は存在する」。迦葉は仏に申し上げた。「素晴らしいことです、瞿曇。苦があると説かれるなら、私に法を説いてください。私をして苦を知り苦諦を見させてください」。
仏は迦葉に告げられた。「もし受けることが自ら受けることであるなら、私は苦が自作であると説くべきである。もし他が受けるならば、それは他作である。もし自ら受け他も受け、さらに苦を生ずるなら、そのような苦受は自他共作であるが、私はそうは説かない。もし自他によらず無因で苦が生ずるなら、私もそうは説かない。如来の説法は両極端を離れ、中道を説く。これあるがゆえに彼あり、これ起こるがゆえに彼起こる。つまり無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、ついには生を縁として老死憂悲苦悩という純粋な大苦の集積が生じる。無明が滅すれば行も滅し、行が滅すれば識も滅し、ついには生老病死憂悲苦悩という純大苦聚も滅するのである」。
原文:仏、この経を説き終えられしとき、阿支羅迦葉は塵を遠く離れ、垢を離れ、法眼清浄を得たり。時に阿支羅迦葉は法を見、法を得、法を知り、法に入り、諸々の疑惑を度し、他によらずして知り、他によらずして度され、正法と律において心に畏れ無きを得て、合掌し仏に白しき。世尊。我は今すでに度されぬ。我は今日より、仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依す。寿命尽くるまで優婆塞となり、我を証知したまえ。阿支羅迦葉、仏の説かれたことを聞き、歓喜し随喜し、礼をなして去りぬ。
釈:仏がこの経を説き終えられると、阿支羅迦葉の心は五陰の塵世の煩悩から遠く離れ、法眼清浄を証得した。この時阿支羅迦葉は十二因縁の法を見て証得し、十二因縁の法を知り、十二因縁の法に入り、十二因縁に関する一切の疑惑を滅し尽くした。他の因縁によるのでなく法を知り、他の因縁によるのでなく度され、正法と律儀に対して心に何の畏れもなくなった。そこで合掌して仏に申し上げた。「世尊、私は今すでに度されました。今より仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依します。生涯をかけて優婆塞となり、どうか私をお認めください」。阿支羅迦葉は仏の説かれたことを聞き、歓喜し随喜し、礼拝して去っていった。
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