(二)原文:また問う。如何なるか尊者。苦を離れ楽を息み、憂喜先に断たれ、苦しからず楽しまず捨て、浄念一心にして、第四禅を具足し、諸漏を起こさず、心善く解脱するや。答え言う。そうではない須深。また問う。もしまた寂静にして、色無色を解脱し、身に作証し具足して住し、諸漏を起こさず、心善く解脱するや。答え言う。そうではない須深。須深また問う。如何なるか尊者。説く所同じからず、前後相い矛盾す。如何にして禅定を得ずして、また記説すや。比丘答え言う。我は慧解脱なり。この説を為し終わりて、多くの比丘たち、各々座より起ちて去る。
釈:須深がまた問う:尊者、如何にして苦受を離れ、楽受を滅し、憂喜の心を断ち切り、苦しからず楽しまない捨心に住し、心念清浄に専一して第四禅を具足し、一切の煩悩漏を生じさせず、心善く解脱するのでしょうか。比丘は答える:解脱はこのように修めるものではない。須深がまた問う:如何にして心を寂静にし、色界と無色界の繫縛を解脱し、身をもって証とし、完全に解脱の中に住し、一切の煩悩漏を起こさず、心善く解脱するのでしょうか。比丘は答える:解脱はこのように修めるものではない。須深がまた問う:何故尊者は説く所が解脱の実証と異なり、前後矛盾するのか。何故四禅八定を証得せずして自ら後に有りと説くのか。比丘は答える:我は智慧をもって解脱を得たのである。説き終わると、多くの比丘たちは座より起ち去った。
須深は証果が四禅八定を修めることによって初めて成し得ると考え、智慧をもって解脱法を知り証する必要があることを知らなかったため、誤解を生じ、それらの阿羅漢の説く自証境界が解脱の境界と一致しないと考えた。阿羅漢には慧解脱の者もあり、定解脱の者もあり、また俱解脱の者もいる。慧解脱は初禅定を具えれば足り、解脱智慧は必ず具足せねばならず、寿命終了時に解脱智慧によって無余涅槃に入る。定解脱の阿羅漢は必ず四禅八定を具え、同時に解脱の智慧を持ち、主に禅定によって解脱を得て無余涅槃に入り、寿命は自ら掌握し長短自在である。而して俱解脱の阿羅漢は、四禅八定のみならず滅尽定を具え、解脱の智慧も具足せねばならず、滅尽定中に時処を選ばず無余涅槃に入ることができ、寿命終了を待つ必要がない。
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