衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年11月29日    木曜日     第2開示 合計1052開示

意根と意識、どちらが果報を受ける主体でしょうか

ある者は、意根が苦楽を感じないならば、それは報いを受ける主体ではなく、意根は報いを受けないと言う。実際には意根こそが報いを受ける主体であり、六識は単に意根が報いを受けるための道具と代理人に過ぎない。なぜなら、六識が存在しない時でも衆生は果報の中にあり、六識の有無に関わらず、衆生が存在する限り、それ自体が一つの果報であるからだ。そして色身こそが果報の身であり、意根が色身を我と見做すがゆえに、意根は果報の身を持ち、報いは意根に及び、意根が報いを受けるのである。

まず、入胎・住胎・出胎という事象そのものが意根の果報・業報である。生まれ変わり入胎することは意根の事柄であり、どのような色身と生存環境を得るかは意根が最も気にかける事柄である。ゆえに果報とは意根が最も気にかける事柄なのである。住胎と出胎、そして一生の生活環境条件もまた意根が最も気にかける事柄であり、一生を通じて福を享受するか苦しむかは意根が最も気にかける事柄である。したがって意根は報いを受ける主体である。次に、死および死後の行方の問題はさらに意根が関心を寄せる事柄である。臨終の際、意根は死を拒んで掙い、たとえ病苦に苛まれても色身から離れる決断をせず、息を引き取って身体を捨てることを肯んぜず、家親眷属から離れることを望まない。植物状態になってもなお、去って別の色身に生まれ変わることを望まず、微かな五蘊の活動に執着し続け、苦痛の果報を受け続けるのである。

意根は五蘊身の苦しみを自らの苦しみとし、六識の苦しみを自らの苦しみとし、五蘊身と六識の楽しみを自らの楽しみとし、五蘊身と六識の感受を自らの感受とする。しかし六識が存在しない時でも、意根はなお一切の苦楽受と一切の果報を受け続ける。例えば、無想定と無想天の楽受は意根が単独で受け、滅尽定の楽受は意根が単独で受ける。意識がなければ感受しないのである。入胎と住胎の苦受は、意根が単独で受け、意識が感受することはない。死と昏迷の時の苦受は意根が単独で受け、意識がなければ感受しない。睡眠時、安らかであるか否か、快適であるか否かを問わず、全て意根が単独で受ける。睡眠中に火災で焼死するなどの事故が起きても、全て意根が単独で承受し、意識がなければ感受しないのである。

意識が存在する時でさえ、意識のあらゆる感受は意根と密接に関わっており、意識が承受する一切は意根が承受するのと等しい。意根は意識の覚受を非常に気にかけている。なぜなら意識は意根の一つの「我」であり、意根が所有するものであり、意根の助手と道具であるからだ。意識に報いることは即ち意根に報いることに等しく、意根は決して意識が苦報を受けることを望まず、微細な苦さえも望まない。例えば、父母が一家の主である場合、子供が遭遇する一切の苦楽は父母もまたそれに伴って苦楽し、他人が父母に報酬や報復する際にも、子供に報酬や報復する形で間接的に父母に報いる。子供に報いることは即ち父母に報いることに等しく、子供の栄辱と生死は父母と密接に関わっているのである。

意根は意識が生じる根であり、意識は意根を縁として生じる。意根はあたかも意識の父母の如く、意識が報いを受けることは即ち意根が報いを受けることに等しい。ゆえに五蘊が苦しみを受けると、意根はそれを避けようとし、五蘊が楽しみを受けると、意根は貪愛して離さない。要するに、意根は報いを受ける主体であり、果報の真の主人なのである。

——生如法師の開示
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菩薩は無条件に衆生を度してこそ、仏となることができるのです

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意根と意識の関係

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