ある者は、意根が苦楽を感じないため、報いを受ける主体ではなく、意根は報いを受けないと説きます。しかし実際には、意根こそが報いを受ける主体であり、六識は単に意根が報いを受けるための道具と代行者に過ぎません。六識が存在しない時でも衆生は果報の中にあり、六識の有無に関わらず、衆生が存在するそのものが既に果報であり、色身こそが果報身なのです。意根が色身を自我と執着するが故に、意根は果報身を有し、報いは意根に現れ、意根が報いを受けるのです。
まず胎内に入り、留まり、出るという過程自体が意根の業報です。受胎・入胎は意根の所業であり、どのような色身と生存環境を得るかは意根が最も重視する事柄です。従って果報とは、意根が最も執着する事柄そのものなのです。胎内に留まることや出胎、そして一生涯の生活環境も意根が最も関心を寄せる事柄であり、一生を通じて福を享受するか苦を受けるかは意根が最も懸念する事柄です。故に意根こそが報いを受ける主体なのです。次に、死と死後の行方こそ、意根が最も注視する事柄です。臨終の際、意根は死を拒んで抵抗し、病苦に苛まれても色身を離れようと決断せず、息を引き取り身体を捨てることを肯んぜず、親族眷属から離れることを望みません。植物状態となっても新たな色身に移ることを拒み、微細な五陰の活動に執着し、苦痛の果報を受け続けるのです。
意根は五陰身の苦しみを自らの苦しみとし、六識の苦しみを自らの苦しみとします。五陰身と六識の楽を自らの楽しみとし、五陰身と六識の感受を自らの感受とします。しかし六識が存在しない時でも、意根は依然として一切の苦楽受と果報を担わねばなりません。例えば無想定や無想天の楽受は意根が単独で受け、滅尽定の楽受も意根が単独で受けます。意識がなければ感受しないのです。入胎や住胎の苦受は意根が単独で受け、意識がなければ感受しません。死や昏迷時の苦受も意根が単独で受け、意識がなければ感受しません。睡眠時の安穏さや快適さに関わらず、全て意根が単独で受けます。火事で焼死するなどの事故が睡眠中に起きても、意根が単独で承受し、意識がなければ感受しないのです。
意識が存在する時でさえ、意識のあらゆる感受は意根と密接に関連しています。意識が受ける一切は、あたかも意根が受けるが如く、意根は意識の覚受を強く気に掛けます。意識は意根の分身であり、意根が所有するもの、意根の助手と道具であるからです。意識に報いることは即ち意根に報いることに等しく、意根は決して意識が苦報を受けることを望まず、微細な苦しみさえも拒みます。例えるなら、父母が家の主であるように、子供が遭遇する一切の苦楽は父母の苦楽となり、他人が父母に報い返す時も、子供に報いる形で間接的に父母に返報します。子供に報いることは父母に報いることに等しく、子供の栄辱と生死は父母と深く関わるのです。
意根は意識を生じる根本であり、意識は意根を縁として生起します。意根はあたかも意識の父母の如く、意識が報いを受けることは即ち意根が報いを受けることに等しいのです。従って五陰が苦を受ける時、意根はそれを避けようとし、五陰が楽を受ける時、意根はそれを貪り捨てません。要するに、意根こそが報いを受ける主体であり、果報の真の所有者なのです。
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