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日常法話

2018年11月30日    金曜日     第1開示 合計1054開示

識の瞋恚と意根の瞋恚の違い

問:瞋恚の心が生じた後、末那識は意識と同時に瞋恚を起こすのか、それとも意識のみが瞋恚を起こすのか?その時、末那識は何をしているのか?なぜ意識は既に瞋恚を引き起こした事柄を正見で理解したのに、心の中では依然として苦悶や痛みを感じるのか?それは末那識が依然としてその事柄に拘っているからなのか?それとも末那識は関与していないのか?事柄の道理は意識がすぐに理解できるが、末那識も理解した後、心が急に晴れやかになり非常に心地よい。しかしこの苦悶は非常にゆっくりと消えるが、これは末那識が意識のように素早く道理を理解できないからなのか?

答:意識のあらゆる心の作用は、何によって生み出されるのか?では考えてみよう、意識は何によって生じるのか?それは末那識が法塵に触れた後、如来蔵によって生み出されるのである。法塵とは何か?それは末那識が触れる、怒るに値する内容である。末那識が怒るに値する法塵に触れ、発作を起こそうとし、思心所が決定すると、如来蔵は意識を生じさせ、末那識の思惑を満たす。そこで意識は瞋恚を起こして発作を起こすのである。末那識が作用を起こそうとする時、必ず意識に助けを求めて作用させる。なぜなら末那識には助手がおらず、ある法においては作用を起こせないため、意識に助けを求めて自ら作用を起こさねばならず、この時に初めて意識が生じるのである。意識とは末那識の代弁者であり道具であり、末那識に代わって心声を表現するのである。

では意識の怒りという作用は、どのようにして生じるのか?それは末那識が怒り、それを発散させたい、自身の怒りの態度を表出したいと思い、如来蔵がそれに合わせて意識を生じさせ、意識を用いて末那識の怒りを表現するのである。すると意識が生じた後、怒りの心の作用が起こるのである。

末那識が瞋恚を起こすのは真の怒りであり、意識のみが怒るのは偽の怒りである。末那識の真の怒りには様々な表れがある。例えば顔の表情における赤面や首筋の怒張、言語作用における悪口、身体の姿勢における腹を立てて膨れている様子、あるいは大げんかなど、これらは全て意識と身識が共同で作り出したものであり、末那識の心の作用に順応して初めて作り出され、完全に末那識の心の作用を表現している。一方で意識が単独で怒るのは、意識が境界を認識する際、境界が少し気に入らないと感じるが、末那識はどうでもよいと思い、心が非常に平静である場合である。この種の怒りには何の力もなく、深刻な作用は起こらず、ただ形だけのものに過ぎない。

しかし怒った後の両者の反応には違いがあり、覚悟の程度が異なる。意識は直ちに自己を内省し、これらの行為作用を反観するかもしれない。意識は怒りが間違っていると感じるかもしれない。なぜ間違っているかは意識が考えればすぐに理解できる。意識は理解したが、末那識はまだ理解しておらず、相変わらず心の中で怒り、腹を立てて膨れている。意識は「怒るな、怒るな、そもそも自分が間違っているのだ」と言うが、末那識は依然として理解せず、相変わらず怒っている。時には末那識は全く制御不能に怒り、人を殴りたくなる。意識は「人を殴るな、人を殴るのは良くない」と言うが、末那識は聞かず、一方で「人を殴るな」と言いながら、一方で手を上げて殴る。したがって意識が道理を理解し理性がある時も、末那識を必ずしも制御できるとは限らず、末那識はどうしても発作を起こそうとする。すると意識は仕方なく末那識を助け協力せざるを得ず、末那識という主人の指揮に従わざるを得ない。

我々の心理作用は意識レベルと末那識レベルに分けられる。意識レベルは受動的であり、末那識の意志に従わねばならない。意識レベルが主宰しようとするなら、末那識に影響を与え、薫習を成功させなければならない。そうして初めて末那識が主宰して決定を下し、意識の考えに順応するのである。もし意識の薫習が成功せず、末那識が依然として自らの心の作用に沿って発作を起こそうとするなら、意識がどう説得しても無駄であり、「怒るな」と言っても向こうは相変わらず怒り、「そんなことをするな」と言ってもどうしてもそうしようとする。するとどうしようもなく、意識は一方でどうしようもなく思いながら、一方ではその通りに実行する。言うことと行うことが一致しないのは、末那識が意識の意見に従おうとせず、我を張って、意識の言う通りに行動できず、心の作用が一致しないからである。

——生如法師の開示
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