衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年11月30日    金曜日     第3開示 合計1056開示

疑念の力はなぜ大きいのでしょうか

疑念には深いものも浅いものもある。疑いの心が深ければ、その力は大きく、自ら抜け出すのは難しく、それは心の奥底にある意根がすでに疑いを起こしている証拠である。ゆえに身心共に安らかではない。もし単に意識が疑いを起こし、意根が疑わない場合、この種の疑いは比較的浅く、身心は依然として平常通りで、何の変化もない。もし意根が疑いを起こして信じず、如来蔵が意根の思心所を了別すると、それまで積み重ねてきたすべての心の行為を相殺してしまう。これには造ってきた善法や功徳なども含まれる。したがって、疑いの心が重いのはよくない。

疑いは煩悩の一つであり、私たちが解決し克服すべきものである。疑い、信じないことは煩悩や結縛に属し、一種の障害である。修行の中で徐々に解きほぐす必要があり、疑いを解かずにいるならば、生死を超えることはできない。ゆえに、私たちは心の中の疑いを解決する方法を考えなければならない。もし自分がすでに功徳を積んだ後に自分自身を疑うならば、功徳の量や程度は減少してしまう。私たちが真に善業を造ったならば、自分の功徳を疑ってはならず、それを善業であると認めれば、それは確かに善業であり善の果報をもたらす。なぜなら、意根の背後には如来蔵が連動しており、意根の心の行いを如来蔵はすべて知っているからである。もし意根がそれらの功徳を疑い信じなければ、如来蔵はこれらの功徳の記録を相殺し、功徳性は減少してしまう。

それはちょうど、私たちが臨終を迎える時、念いのすべてが今生で造った悪業であれば、如来蔵はそれに応じて悪業を顕現させ、私たちは悪業に従って報いを受けることになるようなものである。しかし、私たちはこの心の念いをコントロールすることができる。一生かけて造った悪業は、臨終前にできる限り懺悔し、どうしても懺悔しきれないものは、臨終の際に心の中で強い念いとして形成されないようにし、薄れさせて忘れるようにする。臨終の時にはなるべく思い出さないことが望ましく、そうすれば如来蔵はその業が現前しないようにしてくれる可能性があり、業が現前する縁が熟さなくなる。

臨終の念いは、私たちの来世の行く先を決定する。意根に念いがあれば、如来蔵はできる限りそれに随順し、思うことはほとんどそのまま実現する。極楽を思えば極楽へ行き、娑婆を念えば娑婆に留まる。一切の法はただ心の想いから生じる。臨終の際の意根がどのような念いを持ち、どのような願力があるか、如来蔵はできる限りそれに応じて、その念力と願力を実現しようと努める。したがって、臨終の際に私たちが善なる願い、極楽を向往する願いを持っていれば、如来蔵は確かに私たちが極楽に往生するよう応じてくれる。もし私たちの臨終の念いが良くなく、今生の悪業と相応するものであれば、悪業の果報が現前し、私たちは三悪道へ行く可能性がある。ゆえに臨終の念いが最も重要であり、善業を造ったならば自分の善業を疑ってはならず、善業を念じ想うことで、非常に高い確率で善業に従って善の報いを受けることができる。

——生如法師の開示
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