我見を断つことは末那識(意根)が五蘊の実在性を否定することであり、悟りを開いて心を明らかにすることは末那識が如来蔵の実在性を認めることである。いずれの証得も最終的には末那識が作用している。では、我見を断つ時と悟りを開いて心を明らかにする時、末那識において作用しているのは「慧」なのか、それとも「思量性」なのか。
我見を断つ過程と明心見性の過程において、末那識の思量性と慧心所の両方が作用している。なぜなら、末那識には了別性、識別性、認知性、択択性、作主性、攀縁性、執着性があるため、慧心所の作用が生じるのである。慧がなければ、これらの機能作用は存在しない。ただし、この慧の機能性は特殊であり、広範的・概括的な性質を持ち、専一・深遠になることができず、了別は具体的・微細になりすぎない。したがって、六塵境界上の法については、六識が協調して了別し、末那識が独自の了別・判断・択択を行う必要があり、ここにも慧心所の作用が関与している。慧心所の了別慧がなければ、末那識には識性がなく、ただ根性のみを持つことになるが、末那識はこの両方を兼ね備えている。
末那識の思量性は、末那識の運行に普遍的に随伴しており、末那識が存在する限り、思量性も刹那刹那に存在し運行している。末那識が刹那に思量し、刹那に択択し、刹那に作主するからこそ、一切の法は刹那刹那に現起して断滅せず、そうでなければ一切の法には断滅・不連続の時が生じる。末那識が何らかの縁(対象)を持ち、一切の法に作意し接触する限り、末那識の思量性は一切の法の上に現行し、一切の法は運行し存在し得るのである。末那識の思量性が絶えず作動して初めて、末那識の慧心所の作動が可能となる。末那識は一切の法に普遍的に存在するため、末那識の五遍行心所法も一切の法の運行に普遍的に存在し、これが末那識の智慧が生起する前提条件である。その他の識心における五遍行心所法も同様である。
したがって、我見を断つ過程と明心証悟の過程において、末那識の思量性は常に運行しており、思量の過程は末那識の智慧性をも体現している。智慧の程度が異なれば、思量の過程・内容・結果も異なり、導き出される結論も異なり、その択択も異なり、六識の造作と功徳受用も異なってくる。なぜなら、末那識が五蘊を思量する際に小乗の空の智慧を具えているからこそ、五蘊が空であり無我であると認識し、我見を断つことができるのである。また、末那識が第八識を思量する際に大乗の法の智慧を具えているからこそ、第八識の実在性を認識し、実相智慧の出生が可能となるのである。末那識の思量性と了別慧は互いに補助・協調して運行しており、どちらか一方が欠けても一切の法の正常な運行はあり得ない。
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