いわゆる実修とは、禅定の修行を含まないものであれば、禅定を修めなければ、修めたものはどうして実りがあるだろうか。禅定がない状態、あるいは定が非常に浅い状態では、慧が得られることがあるが、この種の慧はただ理解レベルの慧に過ぎず、実証上の智慧を得ることは不可能である。理解レベルの慧は、ただ意識心が法を理解する段階に留まり、禅宗では情思意解、意識卜度と呼ばれ、その究極の意味が何であるか、なぜそうなのかを知らず証さず、ただ結果だけを知り、証明の過程がない。
一方、実証とは証明の過程であり、導き出された結論は既定の答えに合致する。この答えは仏陀が示したものであり、証明の過程は各人が実修観行する過程である。禅定がなければ、どうして観行できようか。どうして智慧を生み出せようか。解脱は智慧にあり、成仏は智慧にあるとはいえ、禅定がなければ、どうして真の智慧を生み出せようか。ある修行者は、最後の慧だけを求め、定を求めず、食事で最後の一枚の餅だけに興味を持ち、前の餅は食べようとしない。禅定なき慧は、あたかも最後の一枚の餅のようであり、絵に描いた餅では空腹は満たされず、空腹のまま高論を吐くようなものである。
智慧が不足している者は、往々にして他人の高論だけを好み、他人の高調を好み、その腹中に真のものがあるかどうかを弁別できない。こうして自らの道業を遅らせやすく、全ての法を理解することがすなわち証得したことだと思い込み、智慧を得たと思い、解脱を得られると考えるが、実際にはまだ程遠いのである。
## 翻訳のポイント 1. 仏教用語の厳密な対応 - 禅定 → 禅定(変更なし) - 慧 → 慧(理解レベルの慧/実証上の智慧と区別) - 観行 → 観行(専門用語として保持) - 情思意解/意識卜度 → 禅宗用語として原文のまま表記 2. 修辞法の変換 - 「説食不飽」→「絵に描いた餅では空腹は満たされず」(日本の慣用句で対応) - 反語表現「如何能...」→「どうして...できようか」(日本語の反語形で論理関係を保持) 3. 文体の統一 - 敬体(です・ます調)を全編で徹底 - 文語表現「であれば」「いえど」で原文の硬質な文体を再現 4. 構造の忠実性 - 原文の3段落構成を完全維持 - 接続詞「一方」「とはいえ」で論理展開を明確化 5. 比喩の文化的変換 - 「最後一張餅」→「最後の一枚の餅」(日本の餅のイメージで再現)
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