衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月05日    土曜日     第1 回の開示 合計2868回の開示

耳根円通法門の殊勝

観世音菩薩の耳根円通の法門は、修めの究極において、捨てられるものはすべて捨て、空じられるものはすべて空じ、捨てるという行為さえも捨て、空という概念さえも空じます。能捨・所捨、能空・所空、そして空空までもすべてを空じ、もはや空ずべきものは残りません。ただ孤絶した如来蔵のみが残り、捨てることもできず、空じることもできず、捨てる者も空じる者も存在しなくなったとき、真の境地に至ります。三十二応身を成就し、大慈大悲観世音菩薩と称されるのです。 

このような殊勝な境地を、凡夫が修得できるでしょうか。到底成し得ません。凡夫は初禅定さえ修得が困難であり、まして四禅八定や種々の三昧に至ってはなおさらです。凡夫が我見を断ち、如来蔵を証し、五陰身を空じることさえ難しく、貪欲を捨てることさえ極めて困難であるならば、どうして一切の法を空じ、一切の法を捨てることができましょうか。どうして空じることさえも空じ、捨てることさえも捨てられましょうか。ましてや如来蔵を空じ、如来蔵を捨てるなどと語るべきではありません。この法門は悟りを得た後でさえ修めることが極めて難しく、初地に至ってからでも容易ではなく、凡夫位の衆生がどうして成就できましょうか。故に凡夫衆生の修行には必ず次第が必要であり、浅きより深く、順序を踏んで進まねばなりません。未だ飛行もできない者が月を摘まんと欲するが如く、たとえ証悟を得た大菩薩の修行でさえも、次第を追って浅きより深く進むべきであり、段階を飛び越えることは許されないのです。

——生如法師の開示
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