一切の法を証明する過程においては、必ず末那識(意根)が自ら参与します。末那識が確かな結果を知ろうとするならば、必ず事実の真相を知らなければなりません。末那識が事実の真相を知ろうとするならば、必ず証拠が必要です。この証拠を得る過程は苦労を伴うもので、意識が広範かつ微細に証拠を収集するのに苦労するだけでなく、末那識も深い疑情を起こして共に証拠を探し、共に証明し、かつ意識が収集した証拠を確認しなければなりません。この過程は非常に容易ではなく、意識のように気軽に随意にある法を認めるようなものではありません。それは反復する思想闘争、反復する微細な思量・考量を必要とし、無始劫以来の慣性的な認識と不正確な観念を変えなければなりません。
末那識が(真相を)見出せば、それまでの知見は覆されます。そうして末那識は触発され揺さぶられ、身心の覚受は非常に強烈なものとなります。この過程なしに、実修実証を語ることはできません。禅定を離れては、この過程は到底完成できず、実修実証を語ることもできません。それは単なる高尚な議論に過ぎないのです。
一切の法の結果については、仏陀がほぼ答えを示されています。例えば「夢の如し」「幻の如し」「水中の月の如し」「鏡中の像の如し」「陽炎の如し」など、これらは全て仏陀が示された答えです。答えを知っていることに何の不思議があろうか? 証明の過程こそが、各人の真の智慧を現すのです。一問三不知の解慧(理解だけの智慧)は、少し賢い者なら誰でも得られるもので、何ら珍しいものではありません。
未悟の凡夫は、賢く理解力が強く、知識が広範で、文才・弁舌に優れているため、時間をかければ数万字に及ぶ一切の法は夢の如く幻の如しという論述を書くことができます。しかし、これらの論述のどこに観行の痕跡がありましょうか。どこに実証の痕跡がありましょうか。どこに証明の過程がありましょうか。にもかかわらず、一部の人はこうしたものを好み、日夜暗誦しています。たとえ学問が豊富でも、何の役に立つというのでしょうか。
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