(一)原文:その時、観世音菩薩は即座より立ち上がり、仏足を頂礼して仏に白しき。「世尊よ、我が過去を憶念すれば、数え切れぬ恒河沙劫の昔、その時に仏が世に現れ、名を観世音と申し上げました。我は彼の仏の下で菩提心を発し、彼仏は我に教え給う。『聞・思・修より三摩地に入れ』と。初めに聞中において流に入り所を忘る。入りし所既に寂なりて、動静二相、了然として生ぜず。かくの如く次第に増し、聞く所の聞くこと尽き、尽きて聞くも住せず。覚ゆる所の覚え空しく、空の覚え極まりて円かなり。空ずる所の空しき滅し、生滅既に滅して寂滅現前す。忽然として超越し、世出世間を十方に円明し、二種の殊勝を得たり。一には十方諸仏の本妙覚心に上合し、仏如来と同一の慈力を具え、二には十方一切の六道衆生に下合し、諸々の衆生と同一の悲仰を成す」。
釈:恒河沙劫とは無量劫、数え切れぬ大劫を指す。これは観世音菩薩が正果を成し遂げて既に無量劫を経たことを示し、即ち古仏が再来し慈航を倒駕したのである。
「聞・思・修より三摩地に入る」とは、三摩地が智慧の境地と禅定地の二義を兼ね、大乗地上菩薩の果位、少なくとも四地菩薩の位を示す。智慧の境地とは如来蔵を証得し明心見性したことを指し、禅定地とは四禅八定を達成し、初禅・二禅を超え、最良は四禅以上の境地を指す。智慧の境地は理入、禅定の境地は事入(行入)と呼ばれ、理修と事修の両面を要す。この両者が相俟って初めて深い菩薩の果位に入り、深甚なる三摩地に至るのである。
「初めに聞中において流に入り所を忘る」とは理入の要諦を述べる。仏法を聞思して聖道の流れに入り、諸法実相を証得する。「所を忘る」とは五陰十八界六塵の境界を心中に滅失し、これら世俗法を真実と認めぬこと。事修の部分では具体的な禅定の修養が必須で、音声を聞くことを縁として禅定に入る。音声の流れに随って回入する時、外界の音声相は次第に消滅する。これは理入を離れず、音声の源流を反聞する修法である。
「流に入り所を忘る」とは聖道の流れに入り音声の所在を忘れること。音声は全て如来蔵より生じ、如来蔵性を証得すれば音声を実有と認めなくなる。理入と事修が相俟い、耳根が色塵に攀縁する中、心念が専一となるに従い禅定が生起し、耳識と意識が徐々に音声の起処へ回転する。外聞より内聞へ転じ、外界の声塵は次第に聞こえなくなるのである。
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