(二)所入既に寂なり。識心が内に向かって回流し、音声の起こる所に落ち着くが、その起こる所には響きもなく、喧噪もなく、寂静である。一つは理上の如来蔵、これ寂静なり。二つは禅定の中の境界、これ寂静にして声塵なし。ここに理と事あり、理事円融す。
動静二相、了然として生ぜず。一つは理を指し、三摩地に入りて後、如来蔵を観察すれば、根本的に動静二相を具えず、動にも属さず静にも属さず、動静の声塵相なし、故に寂静なり。二つは事——禅定を指し、この禅定境界の中に動静二相なく、動相も知らず静相も知らず、これ二禅以上の定境に入れるなり。五識なく、耳識現起せず、故に動静二種の声塵を聞かず。動静了然として生ぜずと説くも、実際には動静二相あり、ただ耳識の了別する所にあらず、意識も単独で了別できず、故に二禅以上の定境においては動静二相、了然として生ぜず。
かくの如く漸次に増し、聞く所聞尽くる。一つは理上の智慧境界が漸次深まり、二つは事上の禅定境界が漸次深まる。理上の智慧境界が増進すれば、声塵を聞く能き識心の我が如来蔵性にして、真実の識心我が声塵を聞くにあらざることを明らむ。同時に、聞かれる所の声塵も如来蔵性、如来蔵の変現にして真実の声塵なきことを明らむ。かくして内心に能(識心)所(声塵)の掛礙なく、能聞所聞の実感を滅し、内心空浄なり。事上禅定の境界が増進すれば、能聞の耳識滅し、所聞の声塵滅し、甚深なる二禅以上の禅定境界に入る。
尽聞にして住まず。此時に至り、理上と事修の両面にて、能聞と所聞を既に尽く滅せりと雖も、観世音菩薩の智慧境界と禅定境界は此処に止まらず、此の地に留まりて進まざることなし。深く修行を重ね、更に深き三摩地に入る。
覚ぶる所覚空し。二禅以上には既に五識存在せず、故に五塵境界を知らず。但し意識心は存在し、意識も単独で五塵境界を了別できず、ただ定境法塵に相応す。この時の意識心は極めて微細、ほとんど六塵境界あるを感じず。但し出定後、意識は先に二禅定に入りしを知り、某の禅定に入りしを知り、且つ心喜びあり、内心愉悦し精神充実す。既に二禅以上の境界に意識心あるを以て、意識は即ち覚心なり。此時、理上にては、この能覚の意識心が真実ならず、実法なく如来蔵の変現、如来蔵性なるを認識す。而して覚ぶる所の禅定境界と心喜びも真実性なく、如来蔵性、如来蔵の変現なり。
事上にては、禅定境界は二禅より四禅以上の境界に昇進し、捨念清浄を達し、意識心に深細なる覚なく、意識心の能覚をも空じ、覚ぶる所の禅定境界をも空じ、四空定に入ることを得。
以上述ぶる所は粗略なる理解、実修を経ず、実証経験なく、学人の実修を実際に指導する能わず、ただ多くの方々の祈請に応ずる粗略なる参考資料と為す。
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