衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月07日    月曜日     第1 回の開示 合計2877回の開示

長阿含大縁方便経第九

(一)原文: かくのごとく我聞けり。一時、仏は拘流沙国劫摩沙の住処に在して、大比丘衆千二百五十人と倶に在りき。その時、仏は阿難に告げたまわく、「縁って生ありて老死あり。これ何の義ぞ。もし一切の衆生に生あることなければ、まさに老死あらんや」。阿難答えていわく、「なし」。ここをもって阿難よ、この縁をもって老死は生に由ることを知れ。縁って生ありて老死あり。我の説くところ、義ここに在り」。また阿難に告げたまわく、「縁って有ありて生あり。これ何の義ぞ。もし一切の衆生に欲有・色無色有なければ、まさに生あらんや」。答えていわく、「なし」。阿難よ、我この縁をもって生は有に由ることを知る。縁って有ありて生あり。我の説くところ、義ここに在り。 

釈:仏は阿難に告げたまう、生を縁として老死があるとは、衆生にとってどのような意味か。もし一切の衆生に生がなければ、老死があるだろうか。阿難は答えて「老死はありません」と。仏は「故にこの縁によって、老死は生によってあることを知る。生を縁として老死がある。私の説く意味はここにある」と。さらに阿難に「有を縁として生があるとは、どのような意味か。もし一切の衆生に欲界の有・色界の有・無色界の有がなければ、生があるだろうか」と問う。阿難は「生はありません」と答える。仏は「阿難よ、この縁によって生は有によってあることを知る。三界の有を縁として生がある。私の説く意味はここにある」と。

原文:また阿難に告げたまわく、「縁って取ありて有あり。これ何の義ぞ。もし一切の衆生に欲取・見取・戒取・我取なければ、まさに有あらんや」。答えていわく、「なし」。阿難よ、我この縁をもって有は取に由ることを知る。縁って取ありて有あり。我の説くところ、義ここに在り。 また阿難に告げたまわく、「縁って愛ありて取あり。これ何の義ぞ。もし一切の衆生に欲愛・有愛・無有愛なければ、まさに取あらんや」。答えていわく、「なし」。阿難よ、我この縁をもって取は愛に由ることを知る。縁って愛ありて取あり。我の説くところ、義ここに在り。また阿難に告げたまわく、「縁って受ありて愛あり。これ何の義ぞ。もし一切の衆生に楽受・苦受・不苦不楽受なければ、まさに愛あらんや」。答えていわく、「なし」。阿難よ、我この縁をもって愛は受に由ることを知る。縁って受ありて愛あり。我の説くところ、義ここに在り。 

釈:仏はさらに阿難に告げたまう、取を縁として三界の有があるとは、どのような意味か。もし一切の衆生に貪欲の取、邪見を本とする種々の取着、解脱できない戒を解脱できるとする取着、自我の五陰に対する取着がなければ、三界の有があるだろうか。阿難は「ありません」と答える。仏は「この縁によって三界の有は取着によってあることを知る。取を縁として有がある。私の説く意味はここにある」と。

仏は続けて阿難に「愛を縁として取があるとは、どのような意味か。もし一切の衆生に欲界の愛・色界の愛・無色界の愛がなければ、取があるだろうか」と問う。阿難は「取はありません」と答える。仏は「この縁によって取は愛によってあることを知る。愛を縁として取がある。私の説く意味はここにある」と。さらに「受を縁として愛があるとは、どのような意味か。もし一切の衆生に楽受・苦受・不苦不楽受がなければ、愛があるだろうか」と問う。阿難は「愛はありません」と答える。仏は「この縁によって愛は受によって生ずることを知る。受を縁として愛がある。私の説く意味はここにある」と。

——生如法師の開示
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