五蘊は我なり、五蘊は我にあらず、この我とは何を指すのか。凡夫は五蘊を我と見做し、聖賢は五蘊を我にあらずと見做す。この我とは結局何を指すのか。
ある者はこの我を第八識如来蔵と説くが、この説は正しいか。もし正しいとするならば、凡夫は我あるが故に五蘊を第八識如来蔵と見做すことになる。果たして凡夫にこのような認識、このような思想観念があるだろうか。決してない。もしこのような思想観念があれば、誰も皆凡夫ではなく、直接三賢位を越えて聖位の地上菩薩となるであろう。地上菩薩のみが五蘊十八界のあらゆる面が悉く如来蔵性であり、その実質すべてが如来蔵であることを観察する能力を有し、一分あるいは多分の一真法界性を証得し、法界全体が一真法界であることを証得するなら、即ち仏となるからである。
故に凡夫が五蘊即ち第八識如来蔵という智慧の認識を有することはあり得ない。実際のところ凡夫衆生はこのような思想観念や認識を有しておらず、仏法を学ぶ凡夫衆生でさえ、大多数は第八識如来蔵の存在を知らず、知る者もその真実不虚妄性を認めない者が多く、ましてや証得などしていないから、五蘊を第八識如来蔵と見做すことはない。特に三悪道の衆生は更に五蘊と第八識を結びつけることができず、しかし三悪道の衆生は皆我見を有し、自らの五陰身を我及び我所有として護持する。特に畜生道は愚痴の極みにあり、頭の中に何の概念もなく、ただ五陰身を我と知り、我という概念すら持たないが、畜生たちが自我を護持することを妨げない。意根が言語文字や思惟なくして五陰身という我を知り、他は何も知らないからである。
このような次第で、凡夫衆生は四聖諦の法を学び五蘊を観行して、五蘊即ち第八識如来蔵という絶対真理を否定し、誤った結論「五蘊は第八識如来蔵にあらず」を導き出す必要など全くない。この結論は直接地上菩薩の唯識甚深大智慧を否定し、唯識の正理に背き、華厳経の説く一真法界の正理にも背く。故に証果して「五蘊は第八識如来蔵にあらず」という結論を出すことは、即ち証果しておらず、また如実の観行を行わず、真実の修行過程を経ていない証左である。如実の修行過程を経た者は、決してこのような結論を導き出さない。これは我見を断つ観行における邪路であり、我見を断つ正果を得られず、法眼浄を得ることもできず、解脱も得られない。
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