衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年12月07日    月曜日     第3 回の開示 合計2879回の開示

五蘊無我とは何か

我とは主宰の義、自主の義、恒常不変の義、真実の義である。五蘊にはこのような特質と性質がないゆえに、五蘊は我ではなく、五蘊は把捉できず、主宰なく、自主ならず、恒常不変でなく、真実ではない。五蘊は破壊の義、毀損の義、壊滅の空義である。観行を通じてこの理を証得すれば、五蘊が無我で我ならざることを証得するのである。 

ここに第八識如来蔵の関与はない。声聞乗の修行者は第八識が不生不滅であり五蘊の所依であることを知るだけで十分に我見を断じ得る。外道たちが仏陀に遇い、仏陀の説法を数分聞くだけで四果の大阿羅漢を証得した例において、彼らは第八識を理解する時間的余裕がなく、第八識の意義を知らず、まして五蘊と第八識の関係を観行するに至らなかった。彼らが五蘊に第八識なく、五蘊が第八識に非ざると観行し得る道理はないが、実際に阿羅漢果を証得し、仏陀に先立って涅槃に入っている。

仏陀が四念処経で弟子たちに観行による証果を教えた際、経典全体を通じて五蘊の所依である第八識に言及することなく、弟子たちは観行過程全体で第八識に関与せず、第八識を観行せず、五蘊と第八識を関連付けて観行しなかった。それにもかかわらず、多くの弟子が五蘊の苦・空・無常・無我を証得し、初果から四果に至る法眼浄を獲得した。よって無我の結論を得るにあたり、五蘊に第八識無しという意味を含むものではない。

——生如法師の開示
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