(九)原文:阿难。诸比丘于此法中如实正观。于无漏心解脱。阿难。此比丘当名为慧解脱。如是解脱心比丘。有我亦知。无我亦知。有我无我亦知。非有我非无我亦知。何以故。阿难。齐是为语。齐是为应。齐是为限。齐是为演说。齐是为智观。齐是为众生。如是尽知已。无漏心解脱比丘。不知不见如是知见。
解釈:阿難よ、諸比丘はこれらの法の中で如実に正観し、無漏心解脱に達した。阿難よ、正観する比丘は慧解脱阿羅漢と称すべきである。このように解脱心無漏の比丘は、有我の法も知り、無我の法も知り、有我無我の法もすべて知り、非有我非無我の法も知る。なぜか。阿難よ、このように説いてこそ正語であり、このように説いてこそ法に相応し、このように説いてこそ最も究竟であり、このように説いてこそ正法を演説することであり、このように説いてこそ智慧的な観察であり、このように説いてこそ衆生を度することになるからである。煩悩漏がすでになく、心が解脱した比丘は、有我無我の法を如実に尽く知した後、このような知見に対しては知らず見えないのである。
原文:佛语阿难。彼计我者。齐已为定。彼计我者。或言少色是我。或言多色是我。或言少无色是我。或言多无色是我。阿难。彼言少色是我者。定少色是我。我所见是。余者为非。多色是我者。定多色是我。我所见是。余者为非。少无色是我者。定言少无色是我。我所见是。余者为非。多无色是我者。定多无色是我。我所见是。余者为非。
解釈:仏は阿難に言われた。我ありと計度する人々は、我の境界をすでに定めてしまっている。我ありと計度する人々は、あるいは色の少部分が我であると言い、あるいは色の大部分が我であると言い、あるいは無色の少部分が我であると言い、あるいは無色の大部分が我であると言う。阿難よ、色の少部分が我であると言う人々は、断固として固執して色の少部分が我であると考え、自分の見たところが正しく、その他の自分の見ていないものは正しくないと考える。
色の大部分が我であると言う人々は、断固として固執して色の大部分こそ我であると考え、自分の見たところが正しく、その他の自分の見ていないものは正しくないと考える。無色の少部分が我であると言う人々は、断固として固執して無色の少部分が正しいと考え、その他の自分の見ていないものは正しくないと考える。無色の大部分こそ我であると言う人々は、断固として固執して自分の見たところが正しく、その他の自分の見ていないものは正しくないと考える。
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