衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月02日    日曜日     第3 回の開示 合計1064回の開示

縁由なき心理的な感情はすべて意根によるものである

意識が根拠なく憂慮、畏怖、煩悶するものはすべて末那識に由来します。根拠がないため、意識は末那識がこれらの情緒を生じる原因を知り得ず、ただ自らの原因のみを認識します。意識が発する情緒には原因があります。意識は自らを内省し、分析し、思惟できるため、自らが何故怒りや情緒を生じるかを知りますが、末那識の情緒を観察分析することは容易ではありません。

意識が分析も思惟もできずになお怒りや煩悶を発する時、それは全て末那識に由来します。末那識が意識に情緒の発散を指令しているのです。例えば朝目覚めた時、何事にも接していないのに理由もなく不快感を覚え、心が苦しくなり、怒りを発したい衝動に駆られる場合、それは全て末那識の思想的情绪から来ています。末那識がどのような考えを抱いているか意識は知り得ませんが、末那識は必然的に意識にこれらの思想的情绪を発散させるよう促します。

多くの情緒は一時的に説明し難く、全て末那識に由来します。意識が制御しようとしても制御できない情緒さえ、全て末那識に由来します。この観点から観察すれば、次第に意識と末那識を区別できるようになります。もし意識がある事柄が良くないと知り、多少の憂慮を抱きながらも、その後理性的に分析して問題ないと判断したにも関わらず、心が依然として憂慮し続け、あるいはますます憂慮が深まる場合、これは末那識が憂慮している状態です。意識が「問題ない」と述べても、末那識が理解せず納得しなければ、依然として憂慮は止みません。

——生如法師の開示
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