問:金剛経に「一切の聖賢は無為法を以て差別あり」とありますが、これは如来蔵の法に対する悟りの程度が異なるため差別があるということでしょうか。つまり空性の悟りの程度が異なるということですか。
答:聖賢には声聞の阿羅漢と縁覚の辟支仏、さらに菩薩と仏が含まれ、これを四聖と申します。このうち小乗の初果・二果は賢人であり、明心してから初地菩薩に至る前までは賢人です。前二者の声聞と縁覚は小乗の根器であり、大乗の成仏の道を歩まず、大乗如来蔵の法を参究せず、如来蔵を悟ることもありません。大乗菩薩のみが如来蔵を参究し悟ることができるのです。これが大乗菩薩と小乗声聞・縁覚の違いです。
仏の悟られた無為法は最も究極的で徹底したもので、我空のみならず法も空であり、我執・法執ことごとく断じ尽くし、心中は空空として、如来蔵の法さえも空として執着しません。大乗如来蔵を悟った菩薩は、この世を超えた無為法である如来蔵を証得し、その後第七識の心は次第に無為となり、如来蔵のように有為法の造作の中にあって心行は無為となり、有為かつ無為を兼ね備えます。一方、小乗声聞は五蘊無我の我空を証得し、これが小乗の無為法です。縁覚は十二因縁の縁起法を証得し、一切の法は因縁によって生じたもので空であると悟ります。これも一つの無為法です。その後、声聞・縁覚の心は一切の造作を離れ、第七識も無為となります。この無為性は如来蔵とは異なり、如来蔵は一切の有為法の造作心行において無為であり、有為を廃しない無為です。しかし声聞・縁覚は有為を廃棄する無為を求め、成仏や衆生救済という最も意義ある大事さえも行わず、仏に焦芽敗種の無為と言われる所以です。
声聞と縁覚が証得した無為法は仮相であり、真実の無為である如来蔵に依って初めて存在するものです。不究竟で不真実であり、なお法相を実有と見なし、三界と六道を実在の法とし、苦受を実有とします。これらがすべて如来蔵の幻化によるもので実質は存在せず、すべて如来蔵性であることを知りません。故に彼らの証得した無為法の次元は低いのです。菩薩は如来蔵無為法を証得し、声聞・縁覚より次元は高いものの、修養が未完成で完全に如来蔵に依止せず、心行が完全に空で無為ではないため、これも不究竟です。ただ仏のみが究竟的で徹底した無為なのです。
ある者は声聞・縁覚も如来蔵を証得したと言いますが、もしそうならば声聞・縁覚も菩薩であり、菩薩と違いがなく、発心も同じでなければならず、願力も同じで、皆如来蔵法を深く修行し菩薩道を歩み、自利利他すべきです。しかし彼らの行為は菩薩道に背き、慈悲心が発現せず、三界の苦を恐れ、自らの輪廻を恐れ、修行を続けず、衆生を救済せず、涅槃に入ることを選びます。これは全く菩薩の心行ではありません。
もし声聞・縁覚が如来蔵を証得しているならば、彼らは如来蔵が五蘊身において如何に運作し、如何に五蘊身を生じ保持するかを知るべきです。有為法や三界の苦を恐れて涅槃を選ぶべきではありません。しかし彼らは如来蔵法を全く知らず、五蘊の苦も幻化されたもので恐れ避ける必要がないことを理解していません。如来蔵を悟るとは現前に如来蔵を観察できることであり、ただ如来蔵の名を聞いて存在を信じるだけならば、悟りからは程遠いのです。故に声聞・縁覚は決して如来蔵という無為法を証得しておらず、小乗の五蘊無我と十二因縁という無為法を証得しているに過ぎません。無為法の証得が異なるため、聖賢たちに大小高低の差別が生じ、菩薩たちも如来蔵の証得程度が異なるため、智慧と果位に差別があるのです。
外道にも無為法があります。四禅定に至れば不動無為となり、身心ともに動かず、呼吸も脈搏も心拍もなく、分別も心念もありません。無想定に至れば意識が滅し、心はさらに無為となります。非想非非想定に至れば意識の受と想という二つの心所法が滅し、想受滅無為と呼ばれます。行わず動かざることは生滅法の無為なのです。
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