菩薩の心の働きは、衆生が推し量ることはできず、特に密行を行う菩薩については、その心の働きを衆生は理解できない。例えば、釈迦仏が菩薩であった時に、かつて一人の人を殺したことがある。この人は船に乗っている時、船中の五百人の菩薩を殺そうとした。仏はこれを知り、この人が無間地獄に堕ちるのを防ぐために、極めて重い慈悲の心で彼を殺した。これにより地獄の業を作らせず、自らはそのために地獄に堕ちて苦の報いを受けることを選んだのである。ほかにも、仏菩薩が衆生を救う慈悲の巧みな方便を示す事例があるが、それらをすべて語ることはできない。そうでなければ、煩悩の強い衆生がこれを口実として悪業を造る恐れがあるからである。
ある人が善であるか悪であるかを見るには、その時の外見上の行為だけを見てはならず、主にその人の心の働きと心の在り方、つまり物事を行う目的が何であるか、どのような結果をもたらすかを見なければならない。このような智慧は、普通の人には通常備わっておらず、大菩薩たちは分別と加減をわきまえ、取捨と方便を善く知ることができる。衆生は表面の現象しか見えず、その本質を見ることができず、真の目的を知らない。したがって、多くの事柄について、菩薩は衆生に明白に伝えることができない。なぜなら、衆生は理解できず、智慧が浅はかであるからである。
菩薩は衆生を救うために、衆生の中に潜伏し、屠殺者として、娼婦として、遊客として、賭博者として姿を変え、衆生と交わる。その目的は、衆生を生死の火坑から救い出すことにある。衆生を救うためならば、菩薩は自らを汚すことも惜しまず、衆生の誤解や勘違いも惜しまず、いかなる代償も惜しまない。一体どれほどの者が、菩薩の慈悲や、辱めを耐え忍び重荷を負う心の働きを見ることができるだろうか。
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