日常生活において、私たちは口ではそう言いながら心ではそう思っていない、心と言葉が一致しない状況によく遭遇します。例えば、内心ではある人物に対して瞋恚(しんに)の念を抱いているのに、言葉や行動では慈悲と思いやりを示し、内心の本心を隠しているような場合です。では、この内心の本心は意識の心行(心の働き)なのか、それとも意根(末那識)の心行なのか。私たち凡夫がこのような状況を内観できるのは、おそらく意識に属するものであり、真実の内心は意根と相応するもので、意根に属するべきでしょう。しかし、意根は主導的な識(はたらき)であり、表に現れる言葉や行動は六識が意根に従順に従った結果であるならば、この慈悲と思いやりも意根の心行であるべきです。ところが、私たちが内観するいわゆる内心の本心、すなわちある人物への瞋恚は、慈悲と思いやりとして表現されており、内心の本心ではありません。一体どこに問題があるのでしょうか。
意識と意根の心行が一致しない時、意識の力が強く意根を圧倒すると、意根はやむなく意識の思惑に従い、意識が自らの考えに基づいて話し自己表現することを許容します。しかし、意根は行動する際には依然として自らの本意に従うため、意識の行為はあくまで自分自身を代表するものであり、意根を代表するものではありません。これは意根の意思が虚偽を作り出すこと、心と言葉が一致しないことであり、俗に言う「心に手を当てて話していない」状態、つまり意識が意根の本意に従わずに発言や態度を示すことです。この時、本来は内心に瞋恚があるはずなのに、意識はその瞋恚の心理を表に出して他人に知られたくありません。なぜなら、もし他人に知られれば、自分が良くなく徳がないと思われるからです。そこで意識は、自分に徳があることを示すために、人に対して非常に慈悲深く思いやりのある様子を見せ、他人に良い印象を持たれ良い評価を得ようとするのです。
仮装している時は、完全に意識による偽装です。意識は策略や謀略を考え出し、意根に強制的に同意させることができます。意根は自ら決断できない状況下では、意識の指示に従います。一旦、意識が警戒を緩め、意根を監視しなくなると、意根は自らの真実の考えに従って行動し、これが本性を現すことになります。意識による偽装のない心行こそが、その人本来の真実の徳行と修養であり、この時に意根に修行があるかどうかが明らかになります。
意識は意根に対して一定の作用を及ぼします。もし意識の考えや思惑が意根の心行に順応するならば、意根は完全に同意し、非常に迅速に即座に決定を下し、躊躇いません。もし意識が意根の心行に順応しないならば、意根は考慮し熟考した上で決定を下します。もし意識の分析力が特に強く、説得力もあるならば、意根はあまり賛成でなくとも、しぶしぶ同意するでしょう。もし意根の立場が非常に固いならば、意識は意根を従わせ同意させることはできません。もし意根が非常に頑固ならば、意識は意根を説得して動かすこともできません。
もし意根が意識の制御を受けず、完全に自らの心行に従って行動するならば、その人は非常に豪放で、天真爛漫、純朴、わがまま、頑固になり、すべて自分の本性を表現し、良いことは良い、悪いことは悪いとはっきりし、個性が非常に強くなります。もし意識による調節があるならば、意根は完全に自らの本性を表現することはできず、程度の差はあれ偽装が必要になります。特に人前で、利害関係のある人の前では、必ず偽装しなければなりません。これは意根がまだ十分に良くないからこそ偽装が必要であり、気にかける人や事柄があるため、率直に振る舞うことができないのです。
もしある人の本性が嘘をつく習性で嘘だらけであるならば、それは意根の本質が非常に劣悪であることを示しています。もし意識が調節を加えなければ、永遠に変わることはありません。もし意根に嘘をつく習慣がなく、嘘をつくことを好まない場合、時に意識が無理に嘘をついて事実を隠そうとするならば、これは偽装であり、意識が意根に対して邪な導きをしていることになります。
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