生死の流れに順うものは凡夫、生死の流れに逆らうものは阿羅漢、順わず逆らわぬものは菩薩、彼岸に到るものは仏である。生死の流れに対する菩薩の態度は、順わず逆らわぬことである。なぜなら生死の流れに順うならば、菩薩は流転して苦しみ、自らを度することもできず、いずくんぞ他を度せん。生死の流れに逆らうならば、生死を捨てねばならず、阿羅漢のように無余涅槃に入るが如く、そうすれば色身五陰もなくなり、自らは修行を続けることも、仏道を成就することもできず、広く衆生を度することもできず、こうして自らの誓願に背くことになる。故に菩薩は生死に対し、逆らわず順わぬのである。
我々が仏法を学び修行する目的は仏となるためである。仏は大智慧の成就者である。故に我々の修行の究極目標は大智慧を獲得するためであり、智慧による解脱、智慧による成仏であり、一切の方法手段は智慧を得るためのものである。智慧あれば無明なく、無明あれば智慧なく、無明を破り智慧を得る。されば我々が布施波羅蜜を修すれば、智慧を得て彼岸に到る。持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜も皆智慧を得て彼岸に到り、究竟の解脱を得る。
波羅蜜とは彼岸に到ること、生死の此岸を離れる意味である。我々の本覚心には無明なく、生死なく、生死の此岸におらず、また非ずというものでもない。それは生死なき彼岸におりながら、その岸に非ず、その岸あるに非ず、即ち本覚の中道性である。我々が修行して全ての無明を破り、究竟智を得れば、本覚と相応じ、生死もなく、非不生死、即ち仏地の解脱色を有する。即ち涅槃に在りながら涅槃に入らず、これが仏地の無住処涅槃であり、在在処処に自在ならざるなく、解脱せざるなし。もし我々の修行方法が智慧を得ず、解脱を得られなければ、真実の受用はない。我々は再び考えを巡らし、正しい修行方法を選び、より速やかに仏地に向かい、究竟智を得るべきである。
4
+1