衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年12月04日    火曜日     第4開示 合計1074開示

我見を断つには禅定の配合が必要です

我見を断つ方法は、仏陀がすでに確立しておられ、どの方法も禅定の力が不可欠であり、すべて禅定の中で思惟観行を行うものです。たとえ仏陀が説法される際にも、弟子たちには心を定めて聞くこと、そして思惟することを求められました。仏陀は常に「諦聴せよ、諦聴せよ、善く思念せよ(よく聞きなさい、よく聞きなさい、善く思惟しなさい)」とおっしゃいました。当時の人々は心が純粋であったため、程度の差はあれ禅定を得ており、説法を聞きながら思惟し、皆が思惟観行を行うことができたので、悟りの境地(証果)に至ることは容易に思われました。

現代の我々は福徳が乏しく、心が純粋ではなく雑念が乱れ、禅定がありません。環境や条件の制限により、禅定を修めることができず、その結果、説法が非常に詳細であっても、依然として思惟観行ができず、疑いの情(疑情)も生じません。もし一定の禅定があれば、文字を見るだけで観行が始まり、疑情が現れ、次第に疑いが深まっていきます。求道の心(道心)が強い者は、世俗の事柄をいくつか捨て、どうしても疑情を解決せずにはいられなくなるでしょう。禅定がなければ観行はできず、意根(末那識)の深層に入り込むことができず、意根が力を発揮できません。答えが目の前にあっても、それを得ることはできないのです。

仏陀が説かれた『大念住経(マハーサティパッターナ・スッタ)』に示された方法は、禅定(サマタ)と智慧(ヴィパッサナー)の両方を備え、止観(サマタとヴィパッサナーの結合)を一体としたもので、我見を断つには最も速やかな方法です。そこに示された思惟の方法は、仏陀が非常に明確に、かつ詳細に説かれており、努力してそれらの方法に従って修行すれば、我見を断つことはそれほど難しくありません。大念住経は優れた修行方法であり、あらゆる人に適していますが、多くの人が努力を惜しむだけなのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

仏法の伝播と滅亡の真相

次へ 次へ

それぞれのレベルの人にそれぞれの法あり

ページトップへ戻る