明心した後は、真の大乗菩薩となります。もし心性が明心前に真に転換されず、合格した大乗菩薩の心性を備えていないならば、真の大乗菩薩になるのは難しい、あるいは不可能です。菩薩は菩薩格を持つべきであり、人は人格を持ち、仏は仏格を持ちます。その心性は全てその果位に相応しいものであるべきであり、これが正常な状態です。そうでなければ、それは偽の菩薩、偽の仏です。人格を備えていない人は、完全な人ではなく、真の意味での人ではありません。
菩薩は無量劫にわたり十方の諸仏菩薩に学び受け、説法において正しい部分は十方諸仏の法に属し、誤った部分は自らの修証が未だ不完全な法に属します。仏法は一尊の仏の所有物ではなく、ましてや特定の菩薩の所有物でもなく、凡夫が仏法を持つことは決してありえません。仏法を持つのは仏であり、菩薩法を持つのは菩薩であり、凡夫法を持つのは凡夫です。各層の人は各層の法を持っているため、全ての人は大いなる志を発し、一日も早く仏法を具足し、成仏を果たすべきです。
法に対する観察において、最も究極なのは仏です。菩薩の悟り後の観察でさえ完全に究極的ではなく、その程度は不十分です。そのため菩薩の証悟は無数の層に分かれており、全ての法を頓に悟ることは不可能で、最も徹底的に悟ることも全てにおいて可能ではありません。菩薩の福徳は異なり、禅定は異なり、智慧は異なるため、悟る層も異なります。ある時点に至り、もし菩薩が四禅八定を修めなければ、その後の法は悟ることができず、制限を受けることになります。極めて多くの仏法は依然として極めて深い禅定を通じて悟られるものです。
一部の人々はあえて禅定の作用を否定しようとしますが、菩薩が禅定を修めなければ、道業は根本的に進展せず、ある階位で、ある層で停滞し、先へ進めなくなります。細法と極細法は必ず禅定と神通の配合があってこそ証得でき、完全に証得できるのです。甚深の智慧もまた、極めて深い禅定と神通の配合の下で証得されるものです。
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