衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年02月08日    月曜日     第4開示 合計3076開示

父子合集経講記(一一六)

一切法の造作には作者もなく、受者もない

業行の造作に作者がないなら、その受ける業報には受者がいるのでしょうか?造作者がなければ受者もありません。五陰は仮合の体であって主体がなく、誰が受報するというのでしょうか?苦や楽を受けている私は一つもなく、身体は苦を受けるのでもなく、識心も苦を受けるのでもありません。身心はみな虚妄であり、苦報そのものも幻影なのです。それゆえ、一切法には真実の作者も受者もありません。単独のどの法も一個人だとは言えず、複数の法が組み合わさったものはなおさら一個人ではありません。いずれも仮の体であり、それゆえ一切法の造作には作者がなく、受者もないのです。本当にこの点を証得できたなら、開悟しただけでなく、初地菩薩の境地に達したのかもしれません。

一切法にはいずれも真実の相貌がなく、みな幻化されたものだとすれば、一切法はただ名と相の虚妄分別にすぎないと言えます。例えば、ある物に名詞を一つ与えて、それを代表し表示します。そうでなければ呼び名も表現もできません。この四本の脚のある物に「椅子」という名前を付けると、椅子と聞けば心の中に椅子の相貌が現れます。名と相が現れて初めて椅子と分别表示でき、衆生の間の交流や使用に便利になります。四大が仮合した肉体に色身と名付ければ、人々は言葉で色身の状態を表現でき、識別や交流に便利になります。色身上のいくつかの識に眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と名付け、作主する識に末那識と名付ければ、初めてこれらの識心の機能・作用・状態を述べ記述することができ、私たちは表現や表示、コミュニケーションができるのです。名前と相貌がなければ、私たちは交流もできず、生活もできません。仮の名を一つ付ければ話は簡単です。もし当初、タオルに「シーツ」という名前を付けていたなら、タオルで顔を拭こうとするとき、子どもに「シーツを持ってきて顔を拭いて」と言えばよいことになります。習慣として定着しさえすれば、当初何という名前を付けたかは問題ではありません。いずれも一種の名詞・名相であり、それほど多くの実際的意味はないのです。

——生如法師の開示
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