衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年02月13日    土曜日     第1開示 合計3091開示

神通道力は世间の享楽の比べものにならないものです

円覚経の中で、佛陀(ブッダ)は私たちに修行を教えており、一切の三昧 (samādhi) を成就するのはすべて定慧等持・止観双運の修行の功夫(くふう)によるものであり、定のない乾いた慧はなく、慧のない邪定もない。このようにして成就したものこそが定慧等持の三昧であり、この三昧の力によって世間の一切の法を絶えず幻化することができる。仏には仏の三昧力があり、菩薩には菩薩に相応する種々の三昧力があり、諸仏菩薩は種々の三昧力によって一切の法を変化成就する。たとえば、種々の仏国土を変現するのは三昧力に依り、大千世界を成就するのは三昧力に依り、種々の神通道力を示現するのは三昧力に依る。諸仏菩薩のすべての神通は三昧力に依っているのである。

三昧力は定を離れられず、慧からも離れられない。たとえば八地菩薩は神通の示現によって四大海水を腹の中に吸い込む。四大海水は極めて広大で際限がないが、私たちの地球は四大海水の上にあって一つの小さなボールのようなものであり、魚や蝦、龍や蟹も皆菩薩の腹の中に吸い込まれても何の覚知もない。また、八地菩薩が片手で衆生を載せ、もう片手で地球を持ち上げても、地球上の衆生は地球を離れたことを知らず、まだ地球上にいると思っている。あるいは衆生を遠く離れた他の星体に送っても、衆生は何の覚知もない。菩薩はまさにこの甚深で不思議な三昧力に依り、智慧と禅定に依って、衆生を度化し利益するのである。

私たちは世間の飲食・遊楽・財・色・名・食・睡を追求するが、一生をかけて追求しても得られるかどうかにかかわらず、何の意味もなく、根本的に退屈でたまらない。諸仏菩薩がどれほど神通自在であるか見てみよ。飲食をどれだけ変化させたいだけ変化させ、百味の飲食、千味の飲食、億味の飲食を変化させては、飢えた衆生に供養し、自分自身は飲食を必要としない。それなのに私たちは終日、心と精力を飲食や排泄に向けており、まったくもって意味がない。このような生活は蟻と変わらず、それに浸って抜け出せないとは、なんと智慧のないことか。この時間と精力を修道に用いて、種々の三昧を成就したならば、どれほど自在で解脱していることだろう。

もし八地菩薩になりたいなら、いかなる面での才能と成就もほとんど世界一であり、財宝は形容できないほど豊かである。すでに財宝を必要としないからこそ、財宝はますます増えていき、ついには無限量となり、すべて衆生を利益し度化するために用いられる。この対比ではっきり分かるように、私たちの視野は狭すぎる。目の前のこの一点しか見えず、もう少し遠いところ、もう少し広いところはまったく分からない。私たちの眼差しは必ず長く、さらに長くならなければならない。一生一世や半生半世、あるいは目の前の数年だけに目を向けていては、それより遠いことは考えられず、配慮もできない。

これが福德の問題であり、福德が著しく欠けているために目先のことしか見えない、緑豆のような視野になってしまうのである。立つ位置が高ければ高いほど遠くまで見え、遠くまで見えるほど心量は大きくなり、進む道は速くまっすぐになる。目標が明確であれば、目の前の風景に引き留められることはない。もし目の前の風景に未練を残せば、その先の道は進めなくなる。遠くへ旅するとき、道端の風景にいつまでも未練を残してはならず、勇敢に大きな足取りで前へ進むべきである。もし享受を貪り、風景を鑑賞すれば、道は通れなくなる。風景を享受し貪着するために、道のりが遅れてしまい、そうなると後世において人間界で本来受けるはずであった享受がなく、享受できない。もし天に上がってから天界の享受をすれば、他の仏土の享受はできない。だから、目の前の風景がどんなに素晴らしくても、あなたの足取りに影響させてはならず、立ち止まってはならない。あの最高の目標に向かって一心に前へ進めば、障害は取り除かれるのである。

——生如法師の開示
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