衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年02月22日    月曜日     第2 回の開示 合計3122回の開示

禅定における意識と意根の念の観行

問:座禅に入って間もなく、まず身体が次第に安定し、呼吸が非常に微弱になり、同時に次々と浮かび上がる想念に気付きますが、意識はその想念に追随せず、時に夢を見ているように感じ、各想念はかすかな映像を伴い、その映像は影のようで、想念の生滅と共に瞬時に消え、覚醒したまま眠っているような状態です。このような状態は入定と言えるでしょうか?一点に集中して想念を減らす必要はありますか?

答:この状態は定にある状態です。心が安定して初めて自らの想念に気付き、定力によって想念に追随せずにいられます。定力の支えがあってこそ、夢のように実体のない想念を注意深く観察でき、影のように虚ろなものと感じられるのです。この状態が持続すると、次第に想念は減少します。想念を制御できるか否かにかかわらず、禅定が深まるにつれ想念は徐々に減衰し、遂には消滅します。禅定が比較的安定した状態では、法義を深く細やかに思惟し、学んだ仏法の理路を整理し、重点的に集中して突破できます。

禅定中に想念を発見する主体は誰か。誰が誰の想念を発見するのか。この発見は意識の作用であり、意根から生じる想念が次々と現れるのを、曖昧から明晰へと観察する過程です。これは禅定が意識に従来気付かなかった想念を発見させ、観察をより鮮明にする定力の作用です。意識が意根の想念に追随する際、これを自覚することを「意識の反照」と呼び、これは証自証分の働きです。意根の想念を発見するのは自証分の作用です。

意識が想念に追随しなくなった事実は、意識と意根が分離可能で相互に牽制・影響し合う関係にあることを示します。修養が深まるにつれ、心はより微細な智慧を獲得し、どの識心が煩悩に染まっているか、どれが幾分清浄か、あるいは全てが染汚か清浄かを弁別できるようになります。さらにどの識心が他を牽制し影響を与え、染めているかも明らかになります。元来、意根は染汚が強く意識を引き回しますが、禅定の定力が増大し意識が覚醒すれば追随を止めます。その後さらに修定を続ければ、意根の想念は漸減し、心は清浄さを増し、染汚は軽微になります。この段階では思考が深緻を極め、理路整然として智慧が向上します。

意根の攀縁は意識を引き連れ、その想念を絶え間なく駆り立てます。意根の攀縁は想念の連続と心の混乱として現れます。意根の攀縁を認める者は多くても、意根に想念があると説けば反論されるでしょう。多くの者は攀縁の真義を知らず、経典の文言に固執して法に依らないからです。意根に念心所がないと主張する者もいますが、実際に念心所がなければ心は乱れず、善悪の現象も生じず、世俗では愚者の如く、修行上では心が極めて清浄で禅定が深まった状態となります。実際に身心世界を観察して初めて智慧が生じ、事実をあるがままに知る如実智を得ます。経典の暗記は人に依るのでなく、法に依らねばなりません。法は自らが如実に観察し、智慧を生じて初めて証得されるのです。

——生如法師の開示
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