境界に対して貪りがなくなったならば、それは不還果(三果)の聖者であり、すでに貪りと瞋りの煩悩の現行を断じています。境界に対して執着がなくなったならば、それは阿羅漢(四果)であり、意根の我執と三界への貪愛を断じています。不還果以前では、心がどれほど清浄であっても、それは煩悩を抑圧しているに過ぎず、煩悩を断じたわけではありません。煩悩は内に隠れており、表に出ることは少ないのですが、重大な事態が生じた時には必ず隠しきれず、必ず煩悩を現行させてしまいます。自らの煩悩を真に全面的に見極められる者は極めて稀であるため、往々にして自分には煩悩がないと思い込んだり、あるいは自分は一来果(二果)に達したと考えたりしますが、実際には一来果とは程遠い状態なのです。
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