理に適わぬ考えが心にある時、それは隠すべきであり、なるべく口に出すべきではありません。もし口にするべきでない言葉、道理に悖る言葉を平然と口にするならば、それは内心の煩悩が非常に重く、自制できないことを示しています。内に「我」が存在し、自分が重要であり、他人は自分に従うべきだと考え、全てを自己中心に捉えています。修行が進むにつれ、煩悩は次第に薄れていくべきであり、心の中の理に適わぬ考えも現れなくなるべきです。そうして初めて修行は進歩します。もし内心のこの「我」が深刻な状態ならば、我見を断つことは極めて困難です。
修行とは常に自心の「我」を検証し、日々月々に軽減され、縮小しているかどうかを観察することです。もし以前と同様に強大で不可逆的な状態ならば、修行は効果を上げておらず、正道に乗っていません。我見を断つことが困難だと感じるならば、明心は更に困難です。何故なら明心に必要な福徳や諸条件はより高度であり、菩薩としての心性の向上が求められるからです。我執の強い人は福徳を積み難く、無我の心は如来蔵と相応じ、将来の菩薩道の修行は非常に速やかに進むのです。
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