衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月11日    火曜日     第1 回の開示 合計1088回の開示

人身を得ることはなぜそんなに難しいのでしょうか

現代の衆生は貪瞋痴の煩悩が極めて深重であるにもかかわらず、自らこれを知らず、貪瞋痴が無辺の悪業を造り、未来には基本的に三悪道に堕ち、再び人間に生まれる望みは極めて稀です。衆生は無明があるが故に貪瞋痴の業を造り、またこの無明の故に、それが悪業であることを知らないのです。人間の貴いところは自らを知る明らかさにありますが、仏法を学ばず因果を理解しなければ無明の中にあり、あるいは仏法を学んでも依然として因果を悟らず、自身の一切の身・口・意の行いに果報があることを知らないため、勝手気儘に振る舞い、少しも結果を顧みません。事の正邪を判断するには、自己の判断は正確ではなく、仏の説かれた理によって判断すべきです。衆生は無始劫より広く悪業を造り、六道を輪廻して止むことがなく、人身を得る機会は極めて稀であるため、皆人たる道を知らず、人としての道理を悟らず、自らの貪瞋痴の煩悩を省みることもできません。

衆生が無量劫を経て人身を得る機会について、仏はこれを激流の大海に浮かぶ一本の木に喩えられました。その木には円孔があり、偶然に波間に浮かぶ亀が首をその孔に入れるような、極めて稀な確率であると説かれています。ある時仏は大地より土を一握り取り、これを投げ捨てて弟子たちに問われました。「わが爪先の土と大地の土、どちらが多いか」と。弟子が「大地の土が多い」と答えると、仏は「衆生が人身を得る機会はこの爪先の土の如く少なく、得られぬ機会は大地の土の如く多い」と説かれました。

仏は阿含経において、衆生のほとんどの時を三悪道で過ごすと説かれています。三悪道の業が一部消滅し、残されたわずかな福徳によって再び人身を得ますが、人間となっても善く行わず多くの悪業を造り、死後再び悪道に堕ちるのです。三悪道における地獄の時間は劫単位で計られ、餓鬼道も同様に劫単位、畜生道では各種の生を最低五百回繰り返し、悪業が消滅して初めて再び人間界に戻れます。よって我々が見るように、大多数の人間は人たる道を知らず、徳性に欠けるのは、彼らが長劫にわたり三悪道におり、人としての行いをする機会がなかったためです。我々は今生で人身を得、さらに仏法に遇えたことを真に珍惜し、長劫の苦しみを免れるべく修行すべきです。なぜ貪瞋痴の煩悩を満たすために悪行を造る必要がありましょうか。智慧ある者は静かに思惟し、比較考量して今生を如何に過ごすべきか、未来の苦しみを如何に免れるか、生死の苦恼という最大の問題を解決すべきです。

——生如法師の開示
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