現代の衆生は貪瞋痴の煩悩がほとんど非常に深重であるが、衆生は自覚しておらず、貪瞋痴が無辺の悪業を造り、未来は基本的に三悪道に堕ち、再び人間に生まれる望みは非常に稀である。衆生は無明があるからこそ貪瞋痴の業を造り、まさに無明ゆえにそれが悪業であると知らない。人間の貴さは自らを知る明らかさにあるが、仏法を学ばず因果を理解しなければ無明の中にいる。あるいは仏法を学んでも依然として因果が分からず、自身の全ての身・口・意の行いに果報があることを知らないため、勝手気ままに振る舞い、少しも結果を顧みない。物事の正誤について、自身の判断は正確ではなく、仏の説かれた道理に依って判断すべきである。衆生は無始劫以来広く悪業を造り、六道を輪廻して止むことがなく、人身を得る機会は極めて稀であるため、皆、人となることができず、人となる道理が分からず、自身の貪瞋痴の煩悩を省みることもできない。
衆生が無量劫の間に人身を得る機会について、仏はこれを譬えて言われた。それはまるで荒れ狂う大海の中に一匹の亀がいて、海上に一本の丸太が漂い、その丸太に一つの円孔があり、ちょうど亀の頭が入る大きさである。この亀が風浪に向かって頭を丸太の孔に入れる確率は極めて小さい。仏は人身を得る機会がこれほど小さいと説かれた。ある時、仏が地面から一握りの土を取っては捨て、大衆に問われた。「わが指の爪の土が多いか、それとも大地の土が多いか」。弟子が答えて「大地の土が多いです」と言うと、仏は言われた。「衆生が人身を得る機会はわが指の爪の土のように少なく、人身を得られない機会は大地の土のように多い」と。
仏は阿含経で、衆生の大部分の時間は三悪道で過ごすと説かれた。三悪道の業が一部消滅し、残ったわずかな福によって再び人身を得て人間となるが、人間となった時も善く行わず、多くの悪業を造り、死後また悪道に堕ちる。三悪道では、地獄の時間は劫単位で計り、餓鬼となる時間も劫単位で計り、畜生となる時は各種の畜生で最低五百回を経て、悪業が消えて初めて再び人間界に戻る。したがって、大多数の人は人となることができず、人の品德が良くないのは、彼らが三悪道で過ごす時間が長すぎて、人としての行いをする機会がなく、皆、人となることができないからである。私たちが今生で人身を得て、さらに仏法に遇えたことは、真に長劫の苦しみを免れるために真剣に修行すべきである。どうして自身の貪瞋痴の煩悩を満たすために悪行を造る必要があろうか。智慧ある者は、静かに心を落ち着けて考え、比較し、自身がこの一生をどう過ごすべきか、未来の苦しみをどうして再び受けないかを考え、生死の苦悩を解決するという最大の問題に取り組むべきである。
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