如来蔵の本体を除いて、すべては虚妄の法です。仏法を学び修行すること、善を行い衆生を救うこと、成仏という法も含め、すべての仏法も虚妄の法であり、如来蔵から生じ、生滅を繰り返します。ただ如来蔵だけが不生不滅です。涅槃も虚妄の法であり、第八識の円成実性も虚妄の法であり、第八識の真如の性も虚妄の法であり、如来蔵に依って初めて顕現します。五蘊の身心はなおさら虚妄です。これらの虚妄の法を、私たちはどう扱うべきでしょうか。
私たちは真心である如来蔵に依り、妄心である七識を修行し、七識の無明と染汚を取り除き、無明を尽くして究竟に識を智に転じるべきです。真を修めるのではありません。なぜなら如来蔵は私たちが修める必要がなく、それ自体が如来の智慧と徳相を具え、戒・定・慧も円満に具足し、無明がなく、一切の善法の功徳を具え、心の本体は無為であり、自性は清浄だからです。したがって煩悩なく、生死なく、輪廻もなく、本来縛られることもなく、自性は解脱しています。如来蔵自体は修行せず、私たちもそれを修める必要はありません。ただ七識が如来蔵のように清浄になり、もはや生死がなくなれば、解脱自在となるのです。ですから七識が如来蔵を証得して初めて、依るべきものが得られるのです。
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