止まらない観は雑観であり、心が散乱しております。情思意解に陥りやすく、智慧が生じることは稀で、ほとんどの衆生がこのように散乱した思惟をしておりますが、何ら奇異なことではございません。最も尊く最も難しいのは止の時の観、止を得た後の観で、これは大変容易ならざるものでございます。真の意味での止観修行は、ある期間修行を積んで初めて修められるものなのでございます。
しかるに、定を修めず止を修めなくても観行ができると主張する者もおりますが、それはいかなる観行であり、いかなる現量境界を観じ、いかなる現量結論を得ることができるのでございましょうか。誰もがこのような所謂観行を持ってはおりますが、法を証することや智慧と解脱を得ることに何の益もなく、このような観からは観行智も観察智も生じないのでございます。今の仏法は氾濫しすぎて人々の理解を超え、巧言妙語で飾り立てられてはおりますが、中身には実質的な修証の内容がなく、人に頼って一歩一歩確実に修証できるものではございません。衆生は智慧がなく、往々にして華麗な言辞に惑わされ、自ら目覚めることができないのでございます。
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