衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年09月16日    日曜日     第1 回の開示 合計828回の開示

目で見ることは真実、耳で聞くことは虚妄

問:前七識の中で、真の一家の主は意根である。一般の人は意識が主体であると考え、意識が理解し認めた事柄を自らの智慧の境界と見做している。しかし我見を断じて証果を得る、ましてや明心開悟という事柄は尋常ではない。これは意根に自らの実在性を否定させることであり、意根が無量世をかけて蓄積した深甚なる我見・我執の煩悩とは根本的に相容れない。意識が如何に仏法を思惟し、正知見を薫習しようとも、意根に及ぼす作用は極めて小さい。この事において最も説得力あるのは、意根に現観を可能にすることで、即ち禅定の中で意根に五蘊七識の虚妄なる生滅性を現観させ、現量境界に直面させることである。これにより意根は五蘊が我ならざることを認めざるを得ず、かくして初めて真に我見を断じたと言える。明心もまた同様で、意根に如来蔵の運作を現観させ、この真心の存在を承認させる必要がある。

世俗的な喩えを挙げれば、唯物論的教育を受けた者が、宗教信仰や因果輪廻について説かれても全く信じず、却って「妄信に陥っている」と非難するようなものである。しかし神通力を示されれば直ちに信受し、却って最も篤信する者となる。凡夫は目撃した事実を重視する。証悟もまた同様ではないか。

答:目で見て初めて真実と認めるとは、意根が証得することを指す。目撃せず耳にしただけでは、意根は信じない。「百聞は一見に如かず」という諺からも、意識単独の証得か意根同時の証得かが明らかである。当然後者である。この諺は意識と意根を明確に区別する上で極めて適切である。真の信とは証得後の事柄であり、未証得時は単に意識による聴聞に過ぎず、現見を伴わない。現見する時、意根は信受する。自ら証得したからである。

同様に、我見を断じ無我を証得する理もまた同じである。意根は現量境界のみを認め、自ら証得せず現見しなければ信受しない。「耳学問は虚妄」とは、意識が聴聞しても意根が信じず、心から承認しないことを指す。真摯に修行を積めば、仏法の証得は実は難事ではなく、未解明の問題も次第に理解できるようになる。

我見を断じ明心する際、意根が如何なる活動をし、如何なる心態・心行・智慧を有するかを明らかにすることは、大智慧を生起させる基盤である。その後続の観行は恰も中天の太陽の如く光明遍照し、智慧の発露が止むことを知らない。我見を断じ明心開悟する時も、意根が主体となる。何れの法も悉く意根の主宰によるからである。意識が観行する時、その内容は刹那毎に意根に伝達されるが、意根は容易に承認・信受しない。これは意根が未証得であることを示す。一旦意識が事実あるいは現量境界を提示すれば、意根は直ちに承認し「然り」と主宰的に判断する。意根は如何なる法においても、如何なる時も主宰者であり、我見を断じ明心する際に限って主宰を止めることは絶対にない。故に我見を断じ明心するとは、意根が現量を証得し、信受し、主宰的に決定することを指す。これは疑いの余地なき真理である。

——生如法師の開示
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