人が慢心を抱く時、発する言葉が悪業の種となり将来悪報を受けるだけでなく、慢心を表す表情もまた業種となり、将来それによって悪報を受ける。さらに心の覚観の念も種として蔵され、将来それ故に悪報を受けるのである。心が染汚されると、業種は清浄でなくなるからだ。
自らに慢心が生じたならば、いかなる形式であれ、速やかに懺悔すべきである。後世に悪報を受けぬためには、いかなる代償を払ってでも挽回する価値がある。慢心より深刻な心の働きは、さらに懺悔を要する。後世の大悪報を免れるためである。例えば欺瞞と虚言、故意の騙しと悪意の偽りは、速やかに懺悔すべきである。小さな因が大きな果を得る。これらは決して戯れごとではなく、因果応報は虚しからず。
昔、ある小沙弥が出家の師について「牛が草を嚼むような食べ方」と言ったため、五百世にわたり牛となった。出家者が出家者への口業ですらこれほど深刻であるなら、在家が出家者への口業をなせば、さらに深刻である。各人自らを省み、些細な過ちも懺悔し、将来の報いを後悔先に立たぬよう心掛けるべきである。今や三宝を誹謗する者は数多く、公然と理不尽に、不可思議にも正義を主張している。これらの人々は地獄に堕ちて報いを受ける可能性がある。神通力を得て地獄を巡れば、地獄の衆生が皆殺人放火の輩ではないと知るだろう。多くは仏法を学びながら大悪業を造り、当時は自らの悪業を知らず、ある者は善業と思い込み、何事もないと考えていた。中には自ら修行が優れていると信じる者も少なくない。
貪瞋痴の煩悩が断たれぬ限り、悪業を造る可能性がある。特に仏法修行者が信頼する者に煽られ、熱中して何事も敢えて行い、平然として将来の重い報いを知らぬ。世の中で尊ばれる者ほど、衆生に最も益ある者に対し悪業を造れば、罪業はより大きい。仏法修行者はまず因果を理解し、身口意の行いを慎み、悪業を造らず悪報を受けぬことが賢明である。真に因果を深く信受する者は、初地菩薩に近づきつつある。地前の菩薩ですら因果を完全に信受できず、まして凡夫においておや。如来蔵を証得し、その働きを現観する者は、身口意の行いが刹那毎に如来蔵に収蔵され、漏れなく果報が避けられぬことを知る。故に僥倖の念は存在しない。
経典に説かれる因果の事例を常に読誦すれば、因果を明らかにし、身口意の行いを極めて慎重にできる。熱中して理性を失う者は数多く、無始劫来の悪習が深重で抑制困難である。知るを知るとし、知らざるを知らずとす。理解せぬ事柄について軽率に論評せず、過信すべからず。過信する者は往々にして損を招くが、全て自らが自らに与える損である。過信する者とは我の強き者、即ち我執・我愛・我痴・我慢が深く熾盛なる者である。要するに、悪業を造り悪報を受けるのは、内心の我が降伏せず、絶えず現れて悪業を造るからである。
内心に優越感を抱くことは即ち我慢であり、我の存在である。微細な法さえも我と認めれば、それは我慢である。我慢は最も断ち難く、自覚し難い。あまりに習慣化し、自然に現れるからである。大多数は極めて粗大な我慢を抱きながら、自らの慢心に気付く者は極めて少ない。定力不足、智慧不十分のため、顕在化した慢心も潜伏する慢心も自省できず、指摘されなければ放任されがちである。
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