ある人が言う:無間作意とは、まるで法義が意根に深く入り込んだ後、意根だけが無間作意を実現でき、念々に捨てない状態を指すようだ。実際のところ、功徳とは意根の認可あるいは転換の必然的な産物であり、意根が真に認可し、引き受けたならば、証果の功徳は自然と現れ、智慧も得られる。これは一連の自然発生する過程であり、法を証する根元は依然として意根にある。
この見解は非常に優れている。無間作意とは、「無間」が絶え間ないという意味であり、意根だけが法義を縁として途切れず、二六時中、朝に晩に、念々絶え間なく続けられる。これには意識による仏法の薫習が必要であり、成功裏に意根に浸透した時、意根が仏法を重要と認めれば、念々に仏法を心に掛け、心は常に仏法から離れず、いつの日か必ず仏法を証得できる。もし意根が仏法を心に掛けなければ、意識における仏法への心念は必ず途絶え、絶え間なく仏法を縁とすることはできない。
(注:主要术语处理) - 无间作意:無間作意(仏教用語として定訳) - 意根:意根(唯識学の用語を漢字表記で維持) - 熏修:薫習(仏教用語の標準訳) - 证果:証果(仏教用語の定訳) - 二六时中:二六時中(日本語の慣用表現) 修辞調整: - "朝斯暮斯" → "朝に晩に"(日本語の慣用句で意味を保持) - "念念" → "念々"(漢語表現を維持しつつ日本語で理解可能な表記) - "必能证得" → "必ず証得できる"(必然性のニュアンスを敬体で表現)
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