衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年09月06日    木曜日     第2 回の開示 合計813回の開示

意根の思には言語文字がありません

問:意根で仏法を思惟する修行において、言語文字を離れることはより良いのでしょうか。

答:意根は元来言語文字を離れた存在でございます。言語文字と相応するのは意識心であり、これは比較的表面的な働きであります。言語文字を離れて思惟できる方は、必ず定力が優れておられ、既に意根の深層に達しております。これは容易ならざる境地であり、法を証得しやすい状態であります。定力の浅い方は、言語文字を離れると思考が停止してしまい、智慧も不足いたします。

人の眼差しや表情を見れば、その方に定があるか、また定力の深浅を判別できます。定に入っておられる時、眼差しと表情は平常と異なり、重々しく深遠な趣を呈します。これは深く思索する時の表情で、筋肉が引き締まり、視線が集中し、言語文字の動きが少ないか全く停止いたします。意識が表面的に働く時は眼差しが活発ですが、深く思索する時は視線が凝滞して深淵となり、表情が重厚になります。この「凝」こそが定であり、意根が作用している証左であります。

意根は身根を制御指揮する司令官でございます。一般の方々はこの原理をご存知ないものの、これが真実の姿であります。第八識が身根を制御すると説く方もおられますが、第八識は意根に従属し、意根の指揮を受けております。第八識自体は身根の表情等の刹那的な変化を制御しようとは致しません。この仏法思惟の要諦を体得できれば、何地の菩薩果位に至るまで活用可能で、極めて実践的かつ迅速に智慧を深めることが叶いましょう。

——生如法師の開示
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