実は多くの人は自らの意根を観察することが可能ですが、その心の作用がまさに意根であると認識できず、意識と意根を区別できないため、意識と意根を混然一体の自我としてしまい、自らが自らの心の様々な状態を観察する存在となっております。
例えば、意識が自らの能力や感受を観察する際、そこには意識の能力感受もあれば意根の能力感受もあるのに、全てを意識の能力感受と見做してしまいます。また別の例を挙げれば、意識が自らがある観点を受け入れられるかどうかを観察し、観察後に「非常に受け入れたいと願っているが、内心ではまだ受け入れられない」と気付く場合、受け入れようとするのが意識であり、受け入れられないのが意根なのですが、これを意根の拒絶と知らず「いわゆる自分が受け入れない」と思い込んでしまいます。意識が自らの認知や観念が変化したことに気付き、ある助言を受け入れるようになった場合、その観念や認知を変えたのは意根であるにも関わらず、意識は依然として「思考する自分」と思い込み、それが意根であることを知らないのです。
このような事例は非常に多く、意識が意根を観察し得ることを示しながらも、意識と意根を弁えず常に混淆している実態を物語っております。仮にそこに意根の作用が含まれると指摘すれば、大多数の人は「いや、それは意識だ」と反論するでしょう。これこそが、多くの人々が意根と意識を混同し区別できず、煩悩に覆われ智慧が不足し、識を智に転じ得ない故の所以であります。
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