心を込めて花を育てれば、全ての花は生き生きと育つ。心を込めて料理をすれば、全ての料理は美味となる。心を込めて友と交われば、全ての友は善き友となる。心を込めて人を愛せば、全ての人は親しき人となる。心を込めて事を行えば、全ての事は善き事となる。心を込めて人を為せば、全ての人は善き人となる。心を込めて仏を念ずれば、全ての仏は功徳となる。心を込めて魔を降せば、全ての魔は消滅する。心を込めて法を求めれば、全ての法は心を明らかにする。心を込めて禅を参ぜば、全ての禅は自性を照らす。心を込めて心を用いれば、全ての心は無心となる。
以上の全ての活動には識心が存在する。識心の働きがなければ、活動は存在せず、花を育てることも、友と交わることも、人を為し事を行うことも、仏を念ずることも、禅を参ずることもできない。では何故これらの活動において、なお心を用いる必要があるのか。ここで言う「心を用いる」とは何を指すのか。
五陰身の一切の活動において、意識が能動的に道理を明らかにする時、意根が受動的に道理を明らかにしない場合、五陰身の活動は形の上では行われても、意根は受動的に意識に引きずられるだけで、興味も持たず、何故そうするのかも理解せず、従って誠実さがなく、真心を込めたものではない。これを無心とも称する。この種の無心は種子を留め難く、事は行ったとしても結果は思わしくなく、効果は薄く、果報も軽微である。
最善の結果を得て、殊勝なる果報を求めるならば、意識は意根にその真実の道理を理解させ、意根を染め、意根が積極的に自ら進んで決断し、主導的役割を果たすようにしなければならない。そうしてこそ効果は良く、誠実さが生まれ、真心を込めたものとなる。如来蔵がこれに呼応し、最善の成果を生み出し、最良の種子を留め、後世の果報も殊勝となる。
人々の中には禅を参ずる者も、仏を念ずる者も、法を学ぶ者も、事を行う者も、人を為す者もいる。しかし意根がその中で果たす役割が異なれば、結果も異なる。意根がその中で真に心を用いず、未だ朦朧とし、専心せず、あちこちに縁を攀じていれば、効果は大きく損なわれ、結果は人々の期待に沿わないものとなる。
7
+1