意根が五蘊の身を我と見做す時、飲食においては、色身を維持するために、意識と眼識が飲食の色・味・栄養を選り好みし、舌識と意識が美味と栄養を貪り求め、味覚の対象を実在と見做し、味覚そのものを実在と見做し、脾胃を実在と見做すが故に、飲食への執着が生じるのである。
実を言えば、美味は刹那に生滅変異し永続せず、味覚もまた刹那に生滅変異して永続しない。味覚が消滅した後には何物も得られず、味覚が存在する時もまた何物も得られない。美味が食道に入った後には何物も得られず、美味が存在する時も何物も得られない。消化後の栄養も何物も得られず、栄養が存在する時も何物も得られない。色身が滅した後には何物も得られず、色身が存在する時も同様に何物も得られない。
然るに七識の心は飲食への貪愛によって、欲界六道の輪廻に縛られ苦悩を重ね、一時の刹那的な感覚享受を貪るが故に、千万年の長きにわたって生死の苦海に沈淪する。その苦楽の比率はいかほどか。
眼が色を見、耳が声を聞き、鼻が香を嗅ぎ、身が触覚を感じ、意が法を思う時もまた同様である。束の間の虚妄なる楽受は、果てしない苦悩と引き換えとなる。何の為にかくの如き苦を受けるのか。
常に自心の中の「我」を観照し、五蘊の身の諸活動において、全てが所謂「我」を中心に展開されているか否かを観察せよ。自己の覚知性・感覚性を実在の我と見做し、色身の諸活動を実在の我と見做すが故に、知らず知らずの内にこれらの所謂「我」に執着し、生死の苦悩が絶えず、輪廻が止むことがないのである。
常に心を定中に置き、自らの言行挙止を観察反省し、心中で宝愛する「我」を見出し、これを観行し、思考し、降伏させ、融解させ、最終的にこれを放下し断除するならば、その束縛から解かれ、解脱を得て自在を得るのである。
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