因地とは、まだ仏となっていない菩薩の位の時を指し、果地とは既に成就した仏地の位を指します。衆生が因地菩薩の位において悟る心は、仏地の円満なる覚りの心と同じ一つのものでなければならず、二つであってはなりません。もし因地の心が仏地に至ることができないならば、それは生滅を伴う妄心であり、真実の心である如来蔵ではありません。菩薩が心を明らかにする時に悟るべき心は、生滅のない真実の心でなければならず、生滅を有する七識の妄心であってはなりません。心を明らかにして道を悟る時には、真実を悟らなければならず、誤って悟ってはなりません。誤って悟れば仏となることができません。
多くの人々は、意識心がたまたま妄念を離れた状態を、本来清浄なる自性如来蔵であると決めつけますが、この誤解は甚だしいものです。このように賊を子と認めるならば、自ら家宝を奪い、最終的には無一物となり、輪廻に迷い、解脱を得られず、真実の受用も得られず、ましてや成仏など望むべくもありません。
成仏の真体は自性如来蔵であり、この心は仏地に至るまで滅びることはありません。妄心は仏地まで不変不滅でいることはできず、また何ら真実の功徳もなく、全て如来蔵が与える機能作用です。菩薩の時に悟るべき心は、本来から清浄で妄念のない自性如来蔵であり、修行によって無理に妄念を抑え込んだ後に、その妄念を抑制した心を真如と見做すべきではありません。この偽りの真如は、仏地の常楽我浄を具足した真如ではなく、この賊を真の子と認めてはなりません。そうでなければ仏となることができません。
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