衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年08月11日    土曜日     第2 回の開示 合計786回の開示

唯識の種智を具足して初めて現量をもって第八識の念心所と思心所を観察することができる

道理に従えば、あらゆる識心、第八識を含めて、念(心の作用)を有し、念心所が存在します。ただし、その念の方式と内容が異なるに過ぎません。第七識と第八識の二つの識の働きはあまりにも深微で隠密であるため、定慧が不足する者には全く観察できず、したがってこれらの二識の心念は、如何なる手段を以てしても了別することができません。唯識の種智を具足した後に初めて、その一部を徐々に観察し得るのです。

六祖壇経において六祖は言われました:「真如には念無くして無不念なり」と。実際、どの法が真如の念から生じていないというのでしょうか。真如は無知にして無不知、真如のどの法が知らないというのでしょう。知らなければ変造も執持もできず、念がなければ万法は休廃します。肝要は、第八識が如何に念じ、何を念じ、如何に知り、何を知るかという点にあります。第八識の念と知を六識の念と知に等同させてはならず、また第七識の念と知にも等同させてはなりません。究竟的に言えば、八識の念と知性は皆異なり、一定の差異性を有しており、これらの問題も全て種智の範疇に属します。意識と意根が識を転じて智と成さなければ、これらの問題を深究することはできず、容易に理解し得ないのです。

思心所は、思量性・択択性・造作性を表し、行為を主とし、動の義を有します。第八識にも思心所が存在し、動性を有します。それは一刹那も留まることなく、一切の法を択択造作しています。ただしその動く方式が七識の動きとは異なるのです。第八識の動と不動性は、一般の仏法修行者が理解するようなものではなく、凡夫の情思意解では解き明かせません。禅定と智慧を具足して初めて、これらの法を真実に証得できるのです。

——生如法師の開示
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