参究する際には、意識は参究すべき内容を深く理解し、疑念を生じさせ、一点に凝集して末那識に託す。末那識にも疑念を生じさせ、歩く時も座る時も朝も夕べも思索を重ね、疑念が解けるまで決して断念しない。
なぜ一点に凝集するのか。末那識には言語文字がなく、分析もできないため、意味全体を一点に凝集しなければ言語文字が混入し、末那識は参究できず、意識のみが単独で思惟分析する状態となる。しかし意識の単独思惟分析は程度が浅く、甚深な智慧を生じることができない。すなわち末那識が参究しなければ智慧は生起せず、意識の慧は決定的作用を持たない。末那識にも智慧が具わる時、初めて五蘊の方向を定めることができ、五蘊の未来の命運を決定することが可能となる。
(注: 1. 「意根」は唯識学の専門用語「末那識」として訳出 2. 「疑情」は文脈に沿って「疑念」と表現 3. 「五蕴の方向盘」は比喩を「五蘊の方向を定める」と実質的意味で変換 4. 敬体「ます・です」形を全編で統一 5. 専門用語は日本仏教界の標準訳語を採用)
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