衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年07月25日    水曜日     第1 回の開示 合計768回の開示

指月の指

言語は単なる指先であり、如来蔵の本体ではありません。いかに説こうとも、説く行為そのものが如来蔵ではなく指先なのです。言葉は如来蔵を指し示すことができ、他者がその指先に従えば如来蔵を証得できます。私たちが一幅の絵に向き合う時、言葉は自由に表現できますが、表現されたものはその絵そのものではありません。しかし他者は言葉による描写を通じて、その絵を理解し、認識することができるのです。

したがって、他者が如来蔵を証得して言葉で描写した後、自分が理解できたとしても、それは自らが証得したことを意味しません。自らが眼前に観察したものこそが、言葉で表現できるか否かにかかわらず現量観察による如来蔵であり、真に如来蔵を悟ったことになります。ゆえに言葉は虚妄ではあるものの有用であり、法を見るために不可欠な道具です。あらゆる妄法すらも道具としての役割を果たし、それぞれに用途があります。様々な名相は皆「月を指す指」であり、すべて道具であって如来蔵に至る地図であり、いずれも有用です。ただ恐れるべきは、地図を誤って描いたり、指先が誤った方向を指し示すことなのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

真諦と世俗諦

次の記事 次の記事

法の種類

ページのトップへ戻る