世俗とは、三界の世間を指します。すなわち五蘊十八界と全ての宇宙器世間であり、世俗法とは五蘊世間の生存法則、宇宙器世間の運行法則を意味します。一切の言説、道理、知見、意見、紛争は、全て五蘊十八界という世間を中心に展開されます。もし五蘊が存在しなければ、一切の法則も現れず、五蘊十八界三界世間及び一切の法則は、全て生滅変化を繰り返しています。
諦とは真理を指します。世俗諦とは五蘊世間における苦集滅道に関する真理、五蘊世間の苦・空・無常・無我の真理です。いかなる時代、いかなる歴史的背景においても、苦集滅道の四聖諦は永遠に不変であるため、諦と称されます。
真諦とは最も真実の理であり、第一義諦、勝義諦とも呼ばれ、世出世間において最も殊勝で比類なき真実の理です。これは実相心真如如来蔵を指し、実相心如来蔵の運行する真理と軌則です。真諦と世俗諦は往々にして融合しており、共に作用することで初めて五蘊世間の一切の法則と運行規律、三界世間の存在、世俗諦が成立します。
諦が真理であり、一切法の真実の理を代表する大智慧であるならば、普通の世間人の世俗的言論は諦たり得ず、真実性を有し得ません。往々にして邪見と愚痴に満ちており、諦ではなく、世俗諦とも称されません。ただ仏陀が説かれた四聖諦の法のみが世俗諦です。四聖諦は五蘊世間の苦集滅道を説く真理であり、真実性を具え、これに依って修行すれば解脱を得て生死輪廻を出離できるからです。一般世俗人の説くものは世俗諦たり得ず、もし世間人の説くものを世俗諦とするならば、世間人は皆解脱した大聖人となり、仏陀が五濁悪世に来臨して世俗諦の真理を宣説する必要もなくなります。
真諦が実相真如法に関する真理であるならば、衆生がいかに仏法的視点から問題を捉えようとも、永遠に真諦ではなく、依然として個人の覚知妄心の知見に過ぎず、往々にして邪見と誤謬が極めて多く、仮に邪見がなく全て正理であったとしても、真諦如来蔵ではありません。真諦とは真実の実相理体を指し、不生不滅・不垢不浄・不増不減・不断不常の如来蔵真如です。いかなる言語言説・知見・観点も真如本体を代表するものではなく、従って真諦ではなく、単なる妄知妄覚に過ぎません。
17
+1