衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2018年07月24日    火曜日     第1 回の開示 合計763回の開示

知見を立てることは即ち無明の本であり、知見無きを見ることは即ち涅槃である。

『楞嚴経』に次の一節がございます。「知見に知を立てば、即ち無明の本なり。知見に無見あれば、斯れ即ち涅槃なり」。ここで「知見に知を立てば、即ち無明の本なり」とは、衆生は皆、見聞覚知の心を有し、見ることも聞くことも覚えることも知ることもできますが、もしこの知性を真実と見做し、六塵の境界を知る知性を真実として確立し、常住不滅の我として未来世に至るとするならば、このような見解は邪見であり、無明の根本となります。そうなれば六道の生死輪廻を流転し、解脱を得ることができなくなります。

「知見に無見あれば、斯れ即ち涅槃なり」とは、もし観行を通じて、これらの見聞覚知の性が皆、生滅変異する妄心であり、常住せず、永遠に存在するものではなく、真実の我でもないことを了知すれば、心中において再び見聞覚知の性を我と認めなくなります。このような知見が確立されれば、我見を断じ、将来我執を断って無余涅槃を証得します。もし見聞覚知の上において、見聞覚知の性なき自性清浄心を証得すれば、本来の自性清浄涅槃を証得したことになります。

より正確にこの言葉を解釈いたしますと、「知見に無見」とは、六識の様々な知見に同時に、何らの知見も持たぬ本心如来蔵が背後で常に運作していることを指します。「斯れ即ち涅槃なり」とは、この方がすなわち涅槃の境地における不生不滅の本心如来蔵、つまり涅槃心そのものであることを示しております。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

智慧をもって利害得失を見極める

次の記事 次の記事

如来蔵の見聞覚知を離れた性

ページのトップへ戻る