即ち見る処に便ち見ざる有り;見聞の境に居ながら見聞すること能わず;思議の地に居ながら思議すること及ばず。この三句は全て如来蔵が見聞覚知の性を離れ、我々の六識の見聞覚知も如来蔵に触れないことを説いており、ちょうど般若心経に説かれる如来蔵の空性の体性に符合する。
第一句「即ち見る処に便ち見ざる有り」とは、眼根が色塵に触れる処において、眼識が色塵を見る時に、色塵を見ざる如来蔵が存在していることであり、我々の眼は如来蔵を見ることができず、如来蔵には眼が無い故に色を見ることもない。
第二句「見聞の境に居ながら見聞すること能わず」とは、色を見声を聞く六識が六塵の境界を分別する時に、如来蔵が存在するが我々は見聞も分別もできず、如来蔵には六塵の相が無いため、眼識では見えず耳識では聞こえないことを指す。
第三句「思議の地に居ながら思議すること及ばず」とは、我々が思考し、回想し、様々な境界の法塵を想像する時に、如来蔵が存在するが六識の思議や想像の及ばないものであり、如来蔵は不可思議であって、情思意解の方法で推測したり想像したりするものではなく、理にかない法に従って参究し、一定の軌則に依って細心に尋ね求めなければ証得できないことを示す。
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