衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年07月24日    火曜日     第3 回の開示 合計765回の開示

我執を断じ尽くしてこそ、成仏できます

初果において我見を断った後、さらに五陰十八界の虚妄を深く観じて修行を重ね、次第に我執を断ち始めます。我執を断つことはさらに困難を極め、初果の者は七度天上に生まれ、七度人間に生まれ変わりながら修行を続けることで、ようやく四果の阿羅漢となることができます。七度の天上界と七度の人間界を合わせた時間を計算すれば、我執を断つことが如何に容易でないか、我見を断つことよりも無数倍困難であることが分かるでしょう。

我執とは何か。それは意根が五陰の自我に固執し捨てきれない状態を指します。何故まだ執着するのか。五陰の自我に対する我見が徹底的に断たれておらず、依然として五陰の某些の機能作用を自己として部分的・程度的に捉え、執着を捨てきれないからです。無始劫より続く自我への習気が余りにも深く、無明が重すぎ、三界への貪愛が抜き難いため、これほど長い時間をかけて我執の煩悩を断じる必要があるのです。もし意根が一度に五陰の我見を徹底的に断じれば、その我執も同時に断尽され、即ち四果の大阿羅漢となります。そして真に意根の自我への執着を断尽した者は、直接に仏となることができ、単なる四果の俱解脱大阿羅漢に留まりません。故に阿羅漢や辟支仏の我執は未だ徹底的・究竟的に断尽されておらず、それ故に仏となることができないのです。

第八識が何故我見を断つ必要がないのか。それには我見が存在しない故に我見を断つ必要がなく、我見ある者こそ、我見を断つ必要があるからです。

——生如法師の開示
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